小林カウ死刑囚(画像)の最期や生い立ち 娘のその後は?ホテル日本閣事件

爆報!THE フライデー

9月22日放送の「爆報!THE フライデー」は、戦後初の死刑を執行された女死刑囚・小林カウが犯した「ホテル日本閣事件」を特集する。

 

「昭和の毒婦」などとマスコミから呼ばれた小林カウ死刑囚(画像)は、自分より年下の男と関係を結び、その男たちを巻き込みながら自分の夫やホテル経営者ら、3人の命を奪い取った人物。

 

こうした小林カウ死刑囚の犯行は、吉永小百合が主演の「天国の駅」で映画化すらされているのだ。

 

逮捕された後もカウ死刑囚は、取調べでは捜査官の気を引こうと、手を握ったりして色仕掛けをしていたという。

 

しかも自分が死刑になるとは思わず、留置所でも明るく振舞っていたそうだ。

 

カウ死刑囚の最期を見届けた教誨師(きょうかいし)の話では、創価学会に入っていたカウ死刑囚が、留置所には無いので「最低でも3つは試したい」と、3つの宗派の教誨師との面接を願い出たこと。

 

死刑執行前の最期の言葉「長い間お世話になりました。思い残す事も言い残す事もありません」と言ったこと。

 

最期に食べた「寿司」のことなどについて語っている。

 

本来なら死刑囚の最期など知る由もないはずなのだが、死刑囚と自由に面会することを許された唯一の民間人が教誨師であり、刑が執行される現場にも立ち会う。

 

教誨師の存在が世にあまり知られていないのは、法務省からの通達により、守秘義務が厳しく徹底されているからなのだ。

 

今回は、「ホテル日本閣事件」で逮捕され、初の女死刑囚となった小林カウの生い立ちや娘(子孫)、最期などについてまとめてみた。


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小林カウ死刑囚(画像)が犯したホテル日本閣事件とは

商売で一旗をあげた小林カウ死刑囚は、昭和26年、43歳のときに中村又一郎(当時26)という警察官と出会う。

 

当初中村のことを、自分の娘婿にと考えていたカウ死刑囚だったが、2人はほどなくして男女の関係を持つことになる。

 

当時のカウ死刑囚には夫がいたのだが、中村にのめり込むカウ死刑囚の様子に、夫が勘づくのに時間はかからなかった。

 

その後、カウ死刑囚が夫に離婚の申し出をするが、嫉妬した夫はこれを一蹴。そんな状況のなか、カウ死刑囚が犯した最初の事件が発生する。

 

ある時夫が急死してしまうのだが、実際はカウ死刑囚と中村が共謀して夫に毒(青酸カリ)を盛って命を奪ったのだった。

 

犯行の動機は、中村との生活に夫が邪魔になったから。一人目の被害者は夫だった。

 

その後、中村から去れてたカウ死刑囚は、行商の得意先でもあった塩原温泉へ移り住んだ。

 

この地で土産物屋や食堂を経営するが、カウ死刑囚は土産物屋の女主人では満足できずにいた。

 

そして目を付けたのが「ホテル日本閣」だった。

 

昭和34年当時の「ホテル日本閣」は、経営困難に陥っていた。経営者はカウ死刑囚がホテルをほしがっていることを知った上で、共同経営を持ちかけた。

 

それと同時に経営者は「夫婦仲がうまくいっていない妻に手切れ金50万円を都合してくれれば、その後釜にカウを」と助言。

 

この話に、カウ死刑囚は飛びついた。しかし次第に手切れ金も惜しくなったカウ死刑囚は、手っ取り早く妻を消せば一銭も金を出さずに済むと考えたのだ。

 

そして、昭和35年、カウ死刑囚はホテルの雑用役をしていた大貫光吉に声を掛け、妻の命を奪うことを持ちかけた。

 

こうして妻は大貫の手によって命が奪われたのだった。

 

だがホテルはカウ死刑囚のものにはならなかった。カウ死刑囚が金をつぎ込んで増築までしたホテルが、競売に掛けられてしまうとわかったのだ。

 

すると今度は「経営者を消すしかない」とカウ死刑囚は思うのだが、経営者の命を奪っても、ホテルが自分の所有物にならないことは普通ならわかりそうだが、カウ死刑囚にはそんな頭も回らなかった。

 

そして、またしても雑用役の大貫を炊きつけ、経営者の命を奪ったのだった。

 

(小林カウ死刑囚の画像)
小林カウ死刑囚 画像

 

これが小林カウ死刑囚が犯した「ホテル日本閣事件」。

 

被害者となったホテル経営者夫婦は、カウ死刑囚と大貫の手によって消されたわけだが、12月31日、ホテル経営者夫婦の失踪は警察の耳にも伝わった。

 

こうして昭和36年2月、カウ死刑囚と大貫は逮捕された。その後の取調べでカウ死刑囚は前夫のことも自供、以前愛人だった警察官の中村も共謀した共犯として逮捕された。

 

このとき中村はすでに結婚し、2人の子どもをもうけていたという。


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小林カウ死刑囚(画像)の最期

現在、日本で行われる死刑執行は、当日の朝に死刑囚に伝えられ、午前中に刑が執行される。

 

1975年以降から今の制度に変わったのだが、小林カウ死刑囚の時代は、前もって刑の執行が伝えられていた。

 

昭和45年6月10日、カウ死刑囚は拘留所長の呼び出しを受け、死刑執行の言い渡しを受けることに。

 

言い渡しを受けると死刑囚は遺留品の整理をしたり、特別の入浴など日常と異なる用事に追われる。

 

カウ死刑囚は、死刑執行の言い渡しを受ける際に少しの動揺も見せなかったという。もしかすると言い渡しとは考えなかったのかもしれない。

 

所長室でのカウ死刑囚は臆する様子も見せず、静かに所長の机の前に進み出た。

 

「小林カウ、明治41年10月20日生まれ。右の者昭和45年6月7日より5日以内に所定の方法により死刑の執行を行うべし。法務大臣」所長は送られてきた執行命令書を読み上げた。

 

すると、カウ死刑囚は最期に「もう一日だけ待っていただけませんか」と願い出たという。

 

「残念だが、待つわけにはいかないんだよ」「ところで君はいくつになったね」所長が尋ねた。

 

カウ死刑囚が「はい、61歳です」と答えると、「そうか」 「今日は特別のご馳走をしよう。食べたいものがあったら何でも言うがいい。寿司でもウナギでも 天丼でも。普段食べたくても食べられなかったものを思いきり食べたらいい」

 

最期の晩餐としてカウ死刑囚が注文したのは寿司だった。

 

「それでは、お寿司を」と遠慮した小さな声でカウ死刑囚は言ったそうだ。

 

そして死刑執行の当日となった6月11日の朝、カウ死刑囚は朝食を終え、あわただしい気持ちで着替えをした。

 

小菅刑務所の刑場の仏間に入り、刑務官から「これでいよいよお別れです。なにか言い残すことはありませんか」と尋ねられると、「はい。長い間お世話になりました。ありがとうございました。思い残すことも言い残すこともありません」

 

そうカウ死刑囚はキッパリと言ったそうだ。


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小林カウ死刑囚の生い立ちや娘

小林カウ死刑囚の生い立ちだが、カウ死刑囚は明治41年、埼玉県大里郡(現在の熊谷市)の農家で7人姉弟の次女として生まれた。

 

当時、この一帯は貧しい農村地帯で、中でもカウ一家は極貧生活を強いられていたという。

 

カウ死刑囚は尋常小学校に通いながら姉弟の面倒を見ていたが欠席も多かったといい、すぐにカッとなる短気な性格もこの頃からだったとか。

 

小学校卒業後は裁縫塾に通い、16歳になると、憧れの東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。

 

そして22歳の時、姉の勧めで林秀之助(当時27)とお見合い結婚。その後は熊谷で自転車のタイヤ卸業を開業し、カウ死刑囚はそのほかにも「五家宝」という和菓子の製造販売も始めた。

 

商才があったのか、終戦後の物不足の中、和菓子販売は当たったという。さらに漬物の販売や行商を始め、商売の面白さと同時に金儲けの味を知って行くのだった。

 

そんなカウ死刑囚は貧困の中で育てられた生い立ちのためか、将来金持ちとの結婚を夢見たという。

 

だが実際は不本意な結婚に不満を持ち続けていて、最終的には毒を盛って命を奪った。

 

結局、カウ死刑囚は前の夫との間に子孫として1男1女をもうけたが、息子は17歳で亡くなり、娘は音信不通。

 

カウ死刑囚との折り合いが良くないという理由から娘が20歳で音信不通になったことなどを思うと、家族に恵まれたとはいい難い結婚生活だった。


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