宮崎勤 一族の末路 まとめと冤罪説 被害者は5人で中森明菜が名前を予言していた!?

宮崎勤元死刑囚 画像

1988年~1989年に東京と埼玉で相次いで起きた「連続幼女誘拐事件」を10月7日放送の土曜プレミアムが特集する。

 

番組では、犯人の宮崎勤元死刑囚が犯行を語る肉声を入手。その肉声を公開するとともに事件をドラマ化して真相を追及していく。

 

この事件にまつわる都市伝説として、犯人の宮崎元死刑囚がまだ逮捕される前に、犯人の名前を歌手の中森明菜が予言したことで知られる。

 

中森明菜が「ミヤザキツトム」の名前をテレビで発言してからおよそ2か月後、「連続幼女誘拐事件」の犯人が宮崎勤元死刑囚であることを警察が発表したのだ。

 

また、宮崎元死刑囚は、4人の幼い女の子をわいせつ目的で誘拐して命を奪うなど、残虐非道な行動をとったこともあり、宮崎一族はこの事件を機に崩壊の末路。

 

裁判でも、宮崎元死刑囚に刑事責任能力があるかどうかが焦点に。そのため初公判から一審判決までおよそ7年もかかっている。

 

そんな今回は、宮崎勤元死刑囚にまつわる冤罪説や被害者は4人なのに5人いた説、そのほかにも事件後の宮崎一族の末路などについてまとめてみた。


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宮崎勤 一族の末路のまとめ

最初に犯した犯行は、宮崎が26歳になった翌日の1988年8月22日。宮崎元死刑囚は、埼玉県入間市で4歳の幼稚園児に「涼しいところに行かないかい?」と声をかけ、車で連れ去った。

 

そして、翌年の2月に宮崎元死刑囚は、幼児の遺骨を入れた段ボール箱を自宅前に置き、差出人を「所沢市 今田勇子」として犯行声明文を朝日新聞東京本社宛てに送りつけている。

 

犯行声明と書かれた手紙には、被害者の顔写真を添付。当初警察は、差出人が「今田勇子」という女の名前であることや、文章が定規で書いたような文字だったため、なかなか犯人像を絞り切れなかった。

 

2人目の被害者が出たのは、88年10月3日、埼玉県飯能市内の小学1年生に「道が分からなくなったので教えてくれるかい?」と声をかけ、車で連れ去っている。

 

3人目の被害者が出たのは、88年12月9日、今度は埼玉県川越市の4歳の幼稚園児に「暖かいところに寄って行かない?」と声をかけて連れ去り、4人目となる89年6月6日に、東京江東区の5歳の保育園児に「写真を撮ってあげるよ!?」と声をかけ、連れ去った。

 

そして、89年7月23日、東京八王子市で6歳の女の子にいたずらをした男が父親に取り押さえられた。この男こそが宮崎勤元死刑囚だったのだ。

 

こうして宮崎元死刑囚は、「連続幼女誘拐事件」の犯人であることを自供。全面的に犯行を認めた宮崎の自宅で捜査員たちが目にしたのは、天井まで積み重ねられたアニメとSFのビデオテープと漫画だった。

 

「連続幼女誘拐事件」の犯人が俗にいう「オタク」気質だったため、宮崎元死刑囚が原因となって「オタク」が世間から偏見の目で見られることに。

 

しかし、そんなことはまだ全然マシで、宮崎元死刑囚は、事件に関係のない人の人生までを狂わせたのである。

 

宮崎勤元死刑囚のせいで、家族や親せきが被害をこうむった。

 

宮崎 一族の末路をまとめると、まず、宮崎元死刑囚の実家は、東京都あきるの市の五日市というところにあり、家族は父、母、長女、次女と、2人の妹がいた。

 

父親は当時、地域限定のローカル新聞社を経営。宮崎元死刑囚は生まれつき左手が不自由だった。

 

事件後、妹2人のうち、上の方は、近く職場の男性と結婚することになっていたが、事件が起きたため自ら婚約を破棄し、自主退職。

 

下の妹は看護学校に行っていたが、学校を自主退学した。

 

また、宮崎元死刑囚の親戚関係だが、父親にも兄弟がおり、2人の弟も仕事を退職。

 

次男は仕事を退職し、持っていた会社を妻の名義に変更。

 

三男には娘が2人いたが、宮崎性を名乗る影響を考えて妻と離婚し、引き取らせた。

 

一方、宮崎元死刑囚の母親の方にも影響が。母親の兄には2人の息子がいた。一人は警察官で、一人は高校の教諭をしていたが、2人とも勤めを辞めている。

 

そして、宮崎元死刑囚の父親はというと、土地など持っている財産を処分して被害者に謝罪。

 

その土地は820万で売れ、父親は4人の被害者遺族にそれぞれ200万円ずつ送っているのだ。

 

これで父親は、自分の出来ることが終わったということで、息子の判決が出る前に100メートルある高さの神代橋から身を投げ、自ら命を絶った。

 

日本中を震撼させた事件の影響は加害者の父親だけではなく、宮崎 一族の末路にまで及んだ。

宮崎勤の冤罪説

宮崎勤元死刑囚の冤罪説は、いろんなところで語られており、理由も様々だ。

 

当時、犯行に使われた車は、宮崎元死刑囚が乗っていた日産ラングレーとされている。

 

裁判でも宮崎元死刑囚の供述調書には、宮崎元死刑囚の愛車ラングレーの車内と、自宅の部屋で犯行が行われたことになっていた。

 

しかし、宮崎元死刑囚の車や自宅から被害者の血痕や毛髪は全く発見されていないのだ。

 

普通なら何らかの証拠は必ず残るはずだが、その証拠が見つかっていない。この宮崎元死刑囚の裁判において「決定的な物証」と呼べるものは皆無だったのだ。

 

また、冤罪説が語られているのは、目撃された車が、「宮崎元死刑囚のラングレーではなかった」との証言から、そういわれている。

 

被害者の一部を隠したとされる正丸峠で、脱輪した車を発見した元中古車販売業者は、脱輪を手伝った際の車がラングレーではなく、トヨタの2ボックスカーと断言。

 

車の所有者自体が、宮崎元死刑囚ではなかった可能性もあるが、もしそれが本人だった場合、宮崎元死刑囚は、誰の車を運転していたのか謎である。


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宮崎勤事件の被害者は5人?

宮崎勤元死刑囚は、結果4人の幼い女の子の命を奪い、死刑執行されたが、実は被害者は5人だった説が浮上。

 

最初は、1988年8月22日に犯行を犯しているが、その11か月前の9月15日、群馬県尾島町(現・太田市)亀岡で、小学校2年生の女児が行方不明になる事件があった。

 

翌年の1988年11月27日、自宅からおよそ2キロ離れた尾島町前小屋の利根川河川敷に女児が発見されたが、体の一部分は見つかっていない。

 

この事件も、宮崎元死刑囚の犯行ではないかという見方があったのだ。

 

最初の犯行で宮崎元死刑囚は、被害者の遺族宅に遺骨の入った段ボール箱を置き、その後、犯行声明文を朝日新聞東京本社宛てに送りつけている。

 

その手紙の内容に群馬県の女児誘拐事件に触れている箇所があったのだ。

 

宮崎元死刑囚が逮捕された後に、宮崎が『5人目も「白状」』との記事を掲載した女性誌もあったほど。

 

だが、警察は宮崎元死刑囚の事件と群馬県の女児誘拐事件との関連を認めていない。


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宮崎勤事件で中森明菜が犯人の名前を予言していた?

89年7月23日、東京八王子市で、6歳の女の子にいたずらをして逮捕されたことがきっかけとなり、「連続幼女誘拐事件」の犯人として宮崎元死刑囚が再逮捕された。

 

8月11日に世間がこの事件の犯人を知ることになるが、その約2か月前に歌手の中森明菜が、当時放送されていた「ねるとん紅鯨団」というテレビ番組にゲストで出演。

 

この日は、色々なトラブルが重なって放送が中断するなど、放送事故が連発した。

 

後日、フジテレビは、この放送事故をうけて番組を再放送するのだが、トークのシーンで中森明菜は、「理想のタイプを芸能人で例えたら?」の問いに「ミヤザキツトムさん」と返答。

 

本人は俳優の「山崎努」の名前を言おうとしたが、言い間違えて「ミヤザキツトムさん」と答えてしまったのだ。

 

このとき、MCのとんねるずは、「山崎努さんの間違いだろ?間違えるなよ!」とツッコんでいたが、当の中森明菜は「何でだろう?私知らないけど今ずっとミヤザキミヤザキって…」と不思議がり、番組は終了。

 

そして、この放送から2か月後の8月11日、「連続幼女誘拐事件」の犯人として宮崎元死刑囚を再逮捕のニュースが流れたのだ。

 

中森明菜が、「連続幼女誘拐事件の犯人の名前を当てた!」というのは随分とこじつけになるが、このことが都市伝説として今も語り尽くされている。

 

結局、宮崎勤元死刑囚は、被害者遺族に謝罪のないまま2008年に死刑執行された。

 

初公判から一審判決までおよそ7年かかっているのは、半分近くが宮崎元死刑囚の精神鑑定に費やされたからだ。

 

90年3月から始まった東京地裁の裁判での初公判で、事実関係を大筋で認めたが、「覚めない夢を見ているような気がする」「ねずみ人間が出てきておっかなかった」などと取り乱すことなくたんたんと語るが、殺意については否認。

 

弁護側は被告人の犯行の異常さを強調して被告の精神鑑定を求めた。

 

1年3か月かけて行われた第一次精神鑑定では、「刑事責任能力あり」と結論付けされたが、弁護側は再鑑定を請求。

 

再鑑定は2年近くに及んだ末、結論は「多重人格」と「精神分裂病」の2つに割れてしまう。

 

結局、3つの精神鑑定 裁判所がこれらをどう判断するのかが判決の焦点になる事件だった。


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