津田恒実の死因(病気)は脳腫瘍で嫁は再婚?過大評価だった?(2024最新)

津田恒実 画像

プロ野球界において、素質を持ちながらも32歳という若さで旅立ってしまった、元広島カープの津田恒実投手。

亡くなったのは1993年7月20日ですが、彼の名前は今もなお語り継がれています。

 

そんな津田恒実投手の現役時代は、正確な制球力と速球を備えた右腕としての存在でした。

 

闘志あふれる投球スタイルで、相手打者に立ち向かい、抑えとして活躍。

 

独特なフォームから放たれる球は、バッターを圧倒するほどの威力を秘め、多くのファンに愛されたのです。

 

なので、津田恒実投手は野球殿堂入りしているのですが、これに疑問を抱く意見が聞かれるのも事実。

 

通算成績49勝41敗90Sの数字からして「過大評価なのでは?」との声があがったのです。

 

そこで今回は、「炎のストッパー」の異名を持っていた、元広島カープの津田恒実投手の死因(病気)や嫁などについて触れていこうと思います。

Sponsored Link

津田恒実の死因(病気)は脳腫瘍

津田恒実投手は1993年7月20日、福岡市中央区の済生会福岡総合病院で死去。

 

死因は脳腫瘍で、1991年に病気が発覚してから2年間の闘病生活を戦い抜いた末、息をひきとったのです。

 

なお、亡くなる前の津田恒実投手はというと、1991年の春季キャンプ中から頭痛を訴えていて、同年開幕直後の4月16日、風邪による体調不良を理由に登録を抹消。

 

そして翌月15日、上土井取締役球団部長が緊急会見を開き、津田恒実投手が病気であることを発表し、20日に準支配下選手としたのです。

 

ただ、球団側は当初、津田恒実投手の病気は「水頭症」と発表しています。

 

これは、脳腫瘍であることを発表すると、周囲に動揺をあたえるため控えられてのことだったとか。

 

ちょうどこの年は広島カープがリーグ優勝した年。

 

津田恒実投手は福岡市内の病院で治療を受けていましたが、過激な運動はもう無理と判断され、優勝が決定する前に本人から退団届が提出されたといいます。

 

そして、津田恒実投手は治療に専念することになり、野球という生きがいを奪われることに。

 

ですが、周りには陽気に振る舞う姿勢を見せていたそうです。

 

その後は次第に会話も不自由な状態に陥るものの、時には奇跡的な回復を見せることもあったとか。

 

結局、一進一退の状態が続き、とうとう息を引き取ったのです。

 

ちなみに、死因となった脳腫瘍ですが、津田恒実投手の場合は「悪性脳腫瘍」で死亡率が非常に高い病気。

 

悪性の場合はがん細胞の分裂速度が速く、周囲の正常な組織をしみ込むように浸潤していくので、治療にも高度な技術が必要となります。

 

津田恒実投手は、この時代にはほぼ手の施しようがない病気と戦っていたのです。

Sponsored Link

津田恒実の嫁は再婚してる?

津田恒実投手の殿堂入りの表彰式に顔を出したのは、生前、嫁であった晃代夫人。

 

津田恒実投手に代わり、記念のレリーフを受け取っています。

 

(津田恒実投手の嫁だった晃代夫人)
津田晃代の画像

 

その晃代さんですが、現在は津田恒実投手が亡くなってからアパレル経営の男性と再婚しているようです。

 

2008年に再婚しているのに、津田恒実投手に代わりというのも何か複雑な感じですが、事情が事情だけに致し方ないことだったようです。

 

なお、津田恒実投手には大毅さんという息子がいます。

 

息子も野球をしていた経験があり、東京国際大学野球部出身。

 

しかし度重なる故障で、卒業と同時に野球を辞め、現在は葬祭業者の社員として働いているそうです。

 

殿堂入りの表彰式には、嫁だった晃代さんではなく、息子の大毅さんで良かったのかもしれません。

津田恒実は過大評価され殿堂入り?

津田恒実投手の野球殿堂入りの表彰式が行われたのは、2012年7月20日、オールスター第1戦の試合前。

 

この日はくしくも津田恒実投手の19回目の命日で、元広島の投手・北別府学氏の野球殿堂入り表彰式も行われました。

 

現役時代一緒にプレーしていた北別府学氏は「彼が亡くなったときも球宴のとき。津田恒実を忘れないでというメッセージなのかも。こうして一緒にもらえてうれしい」とコメント。

 

ただ、津田恒実投手の実績からして「殿堂入り」に物申す意見があるのも事実で、「過大評価されすぎ」との声があがったのです。

 

津田恒実投手の通算成績は、49勝41敗90Sと、数字的に見てもこれと言って突出したものがない。

 

あえて言うのなら、1989年に記録した12勝5敗28セーブ、防御率1.63くらい。

 

なのに殿堂入り出来たのは、やはり「過大評価」によるものだったのか?

 

それとも打者に真っ向から勝負するプレースタイルが評価されてのものだったのか?

 

謎の残る殿堂入りとなったようなのです。

Sponsored Link

著者情報

▲トップへ戻る