築地八宝亭(山口常雄)の場所は?跡地は現在どうなっている?

築地八宝亭事件

7月20日放送の「奇跡体験!アンビリバボー」は、中華料理店『八宝亭』で夫婦と子供2人が何者かに命を奪われた「築地八宝亭事件」の真相に迫る。

 

1951年に起きたこの「築地八宝亭事件」は、同店の住込み従業員が真犯人だったことにより解決。

 

真犯人の名前は山口常雄(当時25歳)で、第一発見者を装っていた男だ。(画像あり)

 

事件が起きた当初、山口常雄の証言により犯人は別にいると思われた。

 

だが、その犯人と思わた人物が逮捕されたことで状況は一変。

 

供述により真犯人が山口常雄だったことが判明したのだ。

 

ただ、山口常雄に関しては、嘘や芝居をして警察やマスコミをまんまと騙してきたということもあり、逮捕された時には皆がびっくりしたという。

 

そんな山口常雄の生い立ちは、茨城県東茨城郡川根村(現・茨城町)で、農家の次男。

 

しかも裕福な家庭で育っているが、犯行の動機は金銭目的で、その証拠に店からは現金が2、3万円とその他の預金通帳すべてが無くなっていた。

 

そして、この「築地八宝亭事件」の結末は山口常雄の逮捕後、呆気無く幕を閉じる。

 

犯人の山口常雄が、留置場で隠し持っていた青酸化合物を飲んで自ら命を絶ったのだ。

Sponsored Link

築地八宝亭の場所と跡地の現在

残虐な事件が起きた中華料理店『八宝亭』の住所は東京都中央区築地2-8。

 

当然、この場所は現在、店がなくなっていて、跡地にはオフィスビルが建っていると思われる。

 

なお、「築地八宝亭事件」の真相だが、事件の第一発見者を装った男が真犯人で、名前は山口常雄(画像あり)。

 

山口常雄は『八宝亭』に住み込みで働いており、事件があった日も2階で寝ていたと警察に証言した。

 

※山口常雄の画像
築地八宝亭事件 真犯人 山口常雄 画像

 

さらに、山口常雄は事件が起きる前日に「太田成子(なりこ)」と名乗る小太りの女性が『女中募集の貼り紙を見てきた』と言って店を訪れたと証言。

 

その女性は店主に採用され、前夜は店の1回の3畳間に泊まり込んだが、夜遅くなって、親類だという若い男が会いに来た。

 

だがその後、朝になると、2人の姿はなかったとも証言したのである。

 

山口常雄は2人を犯人に仕立て、自分は何もなかったような態度を取り続けた。

 

一方、警察は山口常雄の証言にある「太田」という女性が事件に関わっていると見て、行方を追うことになった。

 

そんな中、警察は山口常雄自身に対しても疑いの目を向けていたのである。

  1. 2階で寝ていてあれだけの惨劇に気づいていないのは不自然.。
  2. 4人の死体全部に52ヶ所の傷を負わせた凶悪な犯人が、2階に寝ていた山口を見逃すはずがない。
  3. 凶行前夜、太田を訪ねてきたという男を目撃した人がいない。
  4. 主人も雇人も普段は8時に起床するのにその日に限って山口は9時に起きている。
  5. 午前1時ごろ、付近の料理屋からかけた電話が通じなかった。しかも、その受話器から山口の指紋が出た。
  6. この種の惨劇の目撃者が、警察に届け出る場合、被害者が面識者または知人であった場合、病院へ直行、または通報するのが普通だが、山口はそのようなことをしていない。

引用元:日本凶悪事件史より

 

結局のところ決定的な証拠がつかめず、この時点では逮捕されずにいる。

Sponsored Link

築地八宝亭事件の真犯人 山口常雄の生い立ちや動機

山口常雄が証言したように「太田成子」のことを数人が目撃しており、言ったことは嘘ではなかった。

 

ただ、親類だという若い男の目撃談はなく、次第に山口常雄にも疑いの目が向けられていった。

 

すると山口常雄は「捜査に協力しているというのに、なぜ私を犯人だと疑う人がいるのか。もう、死んでしまったほうがましだ」と、大声で泣いたという。

 

結局演技だったのだが、決して演技で泣いているようには見えなかったそうだ。

 

そして、そうこうしているうちに作成していた「太田成子」のモンタージュ写真が出来上がり、事件発生から17日経った3月10日、「太田成子」こと西野つや子(当時24歳)が逮捕された。

 

西野は警察の取り調べで、事件の犯人は山口常雄だと供述。

 

自分は山口常雄から頼まれ、奪った通帳で金を下ろしに行ったが、通帳の届け出たハンコが違い、金を下すことに失敗。

 

怖くなって故郷に逃げ帰っていたと自供したのだ。

 

西野が自供したことで事件は結末を迎える。

 

山口常雄が真犯人として逮捕され、共犯の西野つや子については、決定的な証拠が不充分とされ、盗品運搬罪で起訴されて懲役1年・執行猶予3年、罰金2000円の判決が言い渡された。

 

一方、山口常雄はというと、逮捕後の留置場で隠し持っていた青酸化合物を飲み、自ら命を絶った。

 

「築地八宝亭事件」はこうして結末を迎えるのだが、犯行の動機など、すべてが謎のまま。

 

ただ、山口常雄は1948年9月に横領事件で逮捕された過去があったこと、店にある金目のものを盗んでいるため、動機が金銭目的だったことは確かなようだ。

 

そんな山口常雄の生い立ちは、以下のように記してある。

山口常雄は茨城県東茨城郡川根村(現・茨城町)の比較的裕福な農家の次男で、尋常小学校を卒業後、神奈川県横浜市鶴見の軍需工場で少年工として働いたが、肋膜を患って療養。

その後、1943年(昭和18年)から地元の村役場で書記をしていたが、なにかにつけ要領よく派手好みで、ルーズな女性関係が原因で金に窮し、1947年(昭和22年)の春ころから、配給主任となった約1年間、村役場で扱っていた報奨物資を7回に渡って横領して、1948年(昭和23年)9月、逮捕されたと同時に村役場も退職。

これにより、懲役1年6ヶ月・執行猶予5年の判決を受けた。

しかし、この物資の横領は村人のための横流しでもあったため、まるで凱旋将軍のような扱いを受けたという。

その後は農業の手伝いもせずぶらぶらしていた。

そして、預金を引き出しては遊んでいたが、いよいよ自由になる金が底をつき始めると、1950年(昭和25年)12月に上京し、その後、「八宝亭」に住み込みで働き始めたのだった。

引用元:日本凶悪事件史より

Sponsored Link

著者情報

▲トップへ戻る