星野仙一 妻の死因は?娘と永井病院の関係や伝説の制裁とは?

星野仙一 画像

プロ野球・楽天球団副会長を務めていた星野仙一さんが、1月4日に亡くなったことを球団側が発表した。(享年70歳)

 

死因は膵臓がんで、星野さんは2016年7月に急性膵炎を発症したことをきっかけに膵臓がんが発覚したという。

 

昨年12月末から病状が悪化したとのことだが、10月26日に行われたドラフト会議から異変を感じさせる様子だったとか。

 

夏になるくらいから痩せ始めているのが目立ち、秋ごろには足元がおぼつかないことが度々起こっていたという。

 

当時、星野さんは病気のことを隠しつつも「仕事をいっぱい入れたし、その反動かな。年明けも講演の仕事が入っているが、最近は1時間話すと息苦しいんだ。前はこんなことなかったんだけどな。立っているのがつらいんだ。」と弱気な言葉を吐くこともあったとか。

 

かつては「闘将」と呼ばれ、強い相手に闘志をむき出す姿が印象的だった星野さんが、そのような発言をするとは聞いた本人も驚いたことだろう。

 

そんな状態でも星野さんは、今年の正月に娘さん家族とハワイに行く予定だったとか。

 

だが、その願いもむなしく、最愛の妻のもとへと旅立ってしまったのである。

 

今回は「燃える男」や「闘将」の愛称で野球ファンから親しまれた星野仙一さんが残した伝説の「制裁」や、20年前に急逝した妻・扶沙子さんの死因などについてまとめてみた。

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星野仙一 妻の死因は?

星野仙一さんの妻・扶沙子さんが急逝したのは20年前の1997年1月31日。(享年51歳)

 

死因は白血病に併発する肺出血で、扶沙子さんは7年間の闘病生活の末、息を引き取ったのだ。

 

2人は大学時代に知り合い、当時慶應大の3回生だった扶沙子さんが明治大野球部の合宿場を訪ねたのが馴れ初めだったとか。

 

大学卒業後、星野さんはドラフト1位で中日へ入団。プロ1年目のシーズンが終わった1969年12月に結婚し、2人の娘に恵まれた。

 

現役時代の星野さんは特に目立った成績こそ残していないが「打倒巨人」を胸に奮闘。

 

巨人戦では特に闘志を燃やし、結果35勝を挙げるなど中日のエースとして活躍した。

 

1982年に現役を退いた後は、野球解説者としての毎日を送っていたが、87年に球団からの要請があって中日監督に就任。

 

監督に就任して2年目に優勝するのだが、いよいよ今日勝てば優勝、という試合の直前に扶沙子さんが倒れたのだ。

 

当初、扶沙子さんはただの貧血という診断だったが、翌年の春、扶沙子さんに悪性のリンパ腫があることが判明。

 

1990年夏には医者から「もって1年か2年の命」と告げられたのだ。(病名は死因に直結する白血病)

 

このとき星野さんはユニフォームを脱いで妻の看護に専念しようか迷ったという。

 

しかし、自分に出来ることと言えば野球だけで、しかもチームが勝てば妻も生きる励みになるはずだと思い、仕事を続けることを選択した。

 

それは扶沙子さんの望みでもあったという。

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星野仙一の娘と永井病院の関係

星野仙一さんは愛妻家だったという。

 

しかし、妻・扶沙子さんが大変なときに仕事を優先していたため、娘さんとの間には溝ができていたそうだ。

 

扶沙子さんが亡くなってからは親子にできた溝の深まりは解消。

 

そんな2人の娘さんは、三重県津市にある医療法人「永井病院」の長男、二男にそれぞれ嫁いでいるという。

 

結局、娘さんと永井病院の関係というのは、嫁ぎ先だったのだが、兄弟2人と姉妹2人の結婚はなかなか珍しい。

 

ただ、二男の方は養子縁組になって星野家を継いでいるとか。

 

それぞれに子供がいるので、生前の星野さんは芦屋で下の娘さんと孫と同居していた。

 

また、星野さんと娘さんのエピソードとして、こんな話も。

 

2002年、阪神に監督就任しているが、オファーがあった際、悩む星野さんに娘さんがこう言ったそうだ。

 

「パパはファンの人たちに喜ばれる野球をして来た人。それがママの口癖だったから、私たちは賛成よ。」と。

 

妻が溺愛した娘の言葉は、妻の言葉だったのだ。

星野仙一 伝説の制裁とは?

星野仙一さんが初めて監督に就任したのは39歳のときである。

 

中日の監督で2度、阪神で1度、リーグを制しながら日本一を逃していたが、2013年の楽天で宿敵巨人を下し、初の日本一に輝いた。

 

伝説の「制裁」は、初めて監督に就任した中日時代にさかのぼる。

 

このころの星野さんは血の気が多く、試合でミスする選手に鉄拳制裁を与えていたのだ。

 

ベンチにある扇風機を壊したのは有名だが、こんなのはまだ序の口で、ベンチ裏で選手に平手を浴びせかけていたという。

 

よくやられていたのは、当時のキャッチャー・中村武志選手だったとか。

 

顔が変形するほどで、翌日には顔が膨れ上がっていたこともあったそうだ。

 

ただ、こうした選手への「制裁」の育成法は、当然ながら波紋を呼んだという。

 

それでも、制裁を受けた選手が星野さんを恨むようなことは少なかったとか。

 

というのも、星野さんが「制裁」を与えるのは、見込みのある選手ばかりで、手をあげても翌日にはその選手にいろいろと声をかけて、突き放さなかったという。

 

やられたほうも愛情の裏返しだと好意的に捉えることで我慢していたそうだ。

 

そして伝説の「制裁」も阪神の監督に就任したころには鳴りを潜める。

 

中日時代もだったが、このころの星野さんといえば、選手やコーチの家族や球団スタッフに誕生日プレゼントを贈ったり、プロ初勝利を挙げた投手に時計を贈るなどの気配りで有名だった。

 

追記

年末年始はハワイで過ごすのが恒例だった星野さん。今年は容態が悪かったため、三重県の娘夫婦の自宅で過ごしていたという。

 

そして、1月2日の夜、トイレで転倒したものの、3日も普通に食事を摂っていたそうだ。

 

だが、4日の朝に容態が急変。娘さんたちに抱かれて最期を迎えることとなるのだが、星野さんは昼寝でもしているかのような安らかな表情をしていたという。

 

もともと星野さんは、中日の監督時代から糖尿病を患っていたし、不整脈の持病もあった。

 

そのため試合中、ベンチ裏で嘔吐したこともあり、睡眠薬や降圧剤を常に持ち歩いていたそうだ。

 

持病を抱えながらも精力的に活動していた星野さんに異変が起きたのは2016年7月。

 

都内のクリニックで急性膵炎と診断されたのだ。

 

その後、星野さんは自宅がある兵庫県芦屋のかかりつけ医「松本クリニック」へ受診。

 

出張も多いため、東京や仙台の主治医と血液データなどを情報共有しながら、朝夕2回の点滴と重湯だけの生活を3ヶ月間続けたそうだ。

 

だが、この時点で星野さんは「余命3ヶ月、外科的な処置はもう難しい」という状況だったそうだ。

 

もともと膵臓がんは早期発見が極めて難しい病気。

 

膵臓は胃の裏側の深い位置にあるので通常、検診を受けても見つかりにくいことが多いという。

 

また、糖尿病患者の場合は、発生する確率が2倍程度高まるのだとか。

 

結局、星野さんは球団の最高幹部と家族くらいにしか、本当の病状を伝えていなかったようだ。

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