渡辺恒雄 妻の死因と息子の職業は?資産や若い頃の経歴がヤバい!

渡辺恒雄 画像

読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏(92)の訃報情報が流れ、ネット上をざわつかせている。

 

球界のドンことナベツネ氏が死去したという情報は、昨夜、菅野完氏がメルマガで流したことから広まったが、現在、渡辺恒雄氏の訃報に関してマスコミは報じてない。

 

菅野完氏いわく8割間違いないとのことで、公表は安倍総理の帰国を待ってからとされている。

 

ただ、渡辺恒雄氏の訃報は、情報を発信した菅野完氏自体が裏取りできてないらしい。

 

なので真偽不明なところもあるので、念のため正式に発表されるまで静観しておく方がよさそうだ。

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渡辺恒雄 妻の死因

渡辺恒雄氏の訃報は、正式に発表されるまで事実関係はわからないが、高齢者なだけに、いつ何が起こっても不思議でない。

 

しかも渡辺恒雄氏の妻・篤子さんは、昨年10月20日に亡くなっているので、その影響も懸念されていた。

 

なお、妻・篤子さんの死因は肝硬変のためと発表されている。(享年87)

 

渡辺恒雄氏と妻の篤子さんは、1954年3月に、宇都宮徳馬夫妻の媒酌の元結婚。

 

プロポーズしたのは渡辺恒雄氏で、「キミが28番目にデートした女性だが、一番ステキだから結婚して欲しい」といって口説き落としたそうだ。

 

そして、結婚後は息子が誕生し、自宅で暮らしていたが、妻の篤子さんは亡くなる前に認知症を患っていたという。

 

それでも亡くなる直前まで、愛妻家として知られる夫の渡辺恒雄氏と、自宅の隣に住んでいる息子とで、篤子さんの面倒をみていたようだ。

 

なお、妻の篤子さんの葬儀は近親者で営まれ、喪主は夫である渡辺恒雄氏が務めたとされる。

 

このとき喪主を務めたということは、当時の渡辺恒雄氏はまだ元気だったということ。

 

しかし、今年8月16日に自宅で酒を飲んで転び、首を骨折したことをマスコミが報じた。

 

自宅で転倒した渡辺恒雄氏は、すぐさま病院の集中治療室に運び込まれるも、一時はもち直して一般病棟に移されたとされる。

 

ところが2日後に容態が急変し、ふたたび集中治療室に入ったというところまでわかっていたのだった。

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渡辺恒雄の死因を考える

渡辺恒雄氏が入院するという思わぬ非常事態が発生したわけだが、関係者は「1か月ほどで退院できる」と発表していた。

 

だが、この発表以来、退院したという報道はされていない。

 

もし、渡辺恒雄氏の訃報が事実なら、死因は一体何なのかである。

 

情報によると、渡辺恒雄氏は自宅で転倒した際、頸椎の一部を骨折したということだ。

 

その場合、医師は以下のように語っている。

「頸椎が折れると食事をしたり痰を切る力が衰えます。結果的に、痰が肺に詰まる誤嚥性肺炎のリスクが急増するのです。一般論ですが、度合いの軽重を問わず、65歳以上で頸椎を損傷すると、1年以内に28%が亡くなるとの研究結果もあるほどです」

 

と、なると死因として考えられるのは「誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)」。

 

肺炎は高齢者になるにしたがって、死因に多くみられる。

 

また、寝たきりの高齢者などが高リスクで発症する誤嚥性肺炎となれば、ますます死因の可能性として高そうだ。

渡辺恒雄の息子の職業と資産

渡辺恒雄氏が亡くなれば、資産は誰に譲渡されるのか。

 

普通に考えれば、現在、妻の篤子さんもいないことから、資産は息子の渡辺睦氏に譲渡されることになりそうだ。

 

息子の渡辺睦氏に関する情報は、2005年の文春が報じている。

 

当時の記事によると、息子の睦氏は45歳で、職業は中央三井信託銀行法人営業第一部長。

 

同じく中央三井信託銀行資産金融部担当部長で、睦氏の親友である岡野淳氏が、巨人の高橋由伸選手の父や、江川卓氏の借金処理に関与していたと報じたのである。

 

ただ、この問題に関して、息子の渡辺睦氏が関与していたかは不明。

 

ちなみに息子の睦氏は、中央大学付属高校から青学経済を経て入社し、同期でトップの部長昇進を果たしている。

 

その息子が父親・渡辺恒雄氏の資産を譲り受けることになりそうだが、一体どのくらいの額になるのかだ。

 

渡辺恒雄氏の資産が判明しているのは、新宿区の自宅以外に千代田区千鳥ヶ淵にも超高級マンションを所有。

 

さらに個人名義で日本テレビの大株主となっていて、その額265億円と言われている。

 

ほかにも渡辺恒雄氏の資産は残っていそうだが、全体像は、いまだはっきりとしないのだ。

渡辺恒雄 若い頃の経歴

現在、球団最高顧問から退いている渡辺恒雄氏は、もともとただのサラリーマン。

 

かつてはプロ野球よりも高校野球や大学野球の方が人気があり、それほど注目されていなかったが、状況を一変させたのは、巨人に入団した長嶋茂雄氏と渡辺恒雄氏だろう。

 

※現在入院中の長嶋茂雄氏の容態も気になる

 

そんな渡辺恒雄氏の若い頃は、野球に興味がなく、哲学青年だったとされる。

 

しかも、読売のオーナー一族でもない。

 

それでもなぜトップにまで上り詰め、独裁を続けることができてこれたのか。

 

その謎を解く鍵は、若い頃から積み上げてきた経歴にある。

 

渡辺恒雄の経歴

1926年 現在の東京都杉並区に生まれる
1939年 開成中学校に入学
1943年 東京高等学校に編入学。網野善彦、氏家齊一郎と知り合う
1945年 東京帝国大学文学部に入学。同年7月に陸軍砲兵連隊に入営するも、終戦の2日前に除隊
1946年 天皇制への嫌悪から日本共産党に入党
1949年 東京大学を卒業して東京大学大学院に入学する
1950年 読売新聞に入社。週刊読売に配属される。高校時代からの学友である氏家齊一郎を誘う
1952年 日本共産党山村工作隊を取材するため奥多摩のアジトに潜入し、拘束される。無事解放されるが、このとき隊のリーダーだったのが、『生きることの意味』の著者、高史明であった。このスクープが認められて政治部に異動。
1954年 結婚。大野伴睦の番記者に。
1956年 中曽根康弘と知り合う
1958年 児玉誉士夫と知り合う。初の著作『派閥』を上梓
1959年 中曽根康弘らと「サイエンティフィック・ポリティクス研究会を始め、6月には中曽根康弘の岸改造内閣への入閣に尽力
1960年 安保反対の全学連デモが国会に突入し、その際、東京大学の樺美智子が死亡するが、これに対する内閣声明を執筆
1964年 大野伴睦の死去に伴い、船田中の番記者になる
1968年 1月、政治部次長。12月、ワシントン支局長に就任
1972年 1月、ワシントンでの任務を終えて、帰国。編集局参与を経て、同年10月に解説部長
1975年 政治部長兼編集局次長
1976年 緒方克行が『権力の陰謀』で、九頭竜ダム補償問題での児玉誉士夫と渡邉の関係を執筆
1977年 編集局総務(局長待遇)
1979年 取締役論説委員長。
1983年 専務取締役論説委員長
1985年 専務取締役主筆論説委員長
1987年 筆頭副社長主筆
1991年 社長に就任。日本相撲協会の諮問機関横綱審議委員会委員に就任
1992年 前立腺癌の治療のため、前立腺の摘出手術を受ける
1996年 読売ジャイアンツのオーナーに就任
1999年 日本新聞協会会長。経営難に陥った「中央公論社」の営業権を買収し、中央公論新社を設立
2000年 中央公論新社から『渡邉恒雄回顧録』を出版
2003年 日本新聞協会会長を任期満了に伴い退任

引用元:なんj

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