清弘誠は加賀まりこの旦那(夫)?元妻との息子や娘も存在?2024最新
☆この記事はこのような人におすすめです。
・加賀まりこが離婚した旦那(夫)が誰なのかを知りたい。
・加賀まりこと事実婚関係にある清弘誠について知りたい。
・加賀まりこと清弘誠に子供(娘・息子)がいるのかを知りたい。
女優の加賀まりこは過去に結婚、離婚、子供(娘)との別れなど経験し、波乱万丈の人生を送っています。
現在は、TBSのプロデューサーで演出家の清弘誠氏と事実婚関係にありますが、最初に結婚した旦那(夫)も業界人。
相手は、元フジテレビプロデューサーの高田明侑(たかだ・はるゆき)氏で、2人は1974年に結婚。
しばらくして、妊娠するも子供を亡くし、1979年に離婚しています。
その後、元旦那である高田氏は2004年ごろから心臓病を患い、入退院を繰り返していましたが、2011年1月8日に他界。
死因は心不全だったそうです。(享年75)
また、加まりこの波乱万丈な人生はこれだけにとどまらず、1972年には未婚の母に。
プライベートにおいては、1972年に娘を出産するも、生まれて間もなく亡くしています。
当時の加賀まりこは27歳で、出産前年となる1971年の暮れから週刊誌はこぞって妊娠を報じたのです。
そして、未婚である人気女優が身ごもったことに「子供の父親は誰?」といった内容の報道が連日各紙で繰り広げられ、取材に追われる日々。
すると加賀まりこは、マスコミに対して「子どもは産みます。でも結婚はしません。 愛は終わったから」とコメントしたのです。
そこで今回は、亡くなった娘さんの死因や、子供の父親である元旦那についてまとめてみました。
清弘誠は加賀まりこの旦那で事実婚関係
加賀まりこの元旦那は、元フジテレビプロデューサーの高田明侑(たかだ・はるゆき)氏。
2人は1974年に結婚し、1979年に離婚。
加賀まりこは、高田氏の子供を妊娠するも死産。
さらに元旦那の高田氏が、離婚後の2011年に心不全のため他界するなど、波乱万丈の人生を送ってきたのです。
しかし、近年ではTBSのプロデューサーで演出家の清弘誠氏と交際を続けており、事実婚の間柄となっています。
(清弘誠氏)
加賀まりこと清弘誠氏の交際は、今から15年以上前に週刊誌が報道。
清弘誠氏が加賀まりこの自宅から出勤する姿を報じたのです。
ちなみに記事には、都内にある加賀まりこの自宅近所で2人は腕を組み、楽しそうに歩く姿などが目撃されていたといいます。
スクープされた加賀まりこは、事実婚報道に対し、「これが最後の恋だと思ってる」などとコメント。
清弘誠氏とは家族ぐるみの交際で、幸せいっぱいの日々をアピールしたのです。
一方、事実婚関係の清弘誠氏は、「渡る世間は鬼ばかり」の演出も務めたプロデューサーで、離婚歴があります。
元妻のあいだには自閉症の息子がいて、加賀まりことは元々遊び仲間。
見た目は若々しく温和な性格で、人望も厚い。
仕事を通じて知り合った2人は意気投合し、遊び仲間となった後、恋愛に発展したといいます。
そんな清弘誠氏との恋愛について加賀まりこは、週刊誌のインタビューでこのように説明。
「5年越しにアプローチしてやっと振り向いてくれた男性だった。その人と恋をして。私は本当に陽だまりにいるような穏やかさの中で時を過ごせるようになった」
本当のところは、清弘誠氏と結婚したいと思っていたらしいのですが、清弘氏と別れた元妻の事情で叶わなかったそうです。
加賀まりこの元カレは石坂浩二
加賀まりこといえば、大御所女優で男っぽいところがある反面、若い頃は美人で超モテモテ。
そんなギャップを持つ加賀まりこは、デビュー当初、言いたいことを何でも言う自由奔放な言動から「小悪魔」、「小妖精」と呼ばれたのです。
しかも美人とくれば、恋愛も順調で、仕事でも忙しい日々を過ごします。
(若い頃の加賀まりこ)
そんなことから週刊誌に追いかけられたり、仕事も辞めたいと思った20歳のころ。
加賀まりこは、半年先のスケジュールをキャンセルして、単身パリに飛んだのです。
そして、パリに飛んだ後は帰国して再び女優業に復帰。
すると、1966年に映画「泥棒たちの舞踏会」で共演した石坂浩二との交際が公になり、世間を騒がせたのです。
しかも、一時は同棲にまで至り、交際は順調そのものかと思われたのですが、次第にお互いの仕事が忙しくなり、2人は破局を迎えます。
その後、石坂浩二はテレビドラマ「2丁目3番地」で共演した浅丘ルリ子と結婚。
実はドラマで共演する前、加賀まりこは元カレの石坂浩二を浅丘ルリ子に紹介していたそうです。
当時、浅丘ルリ子は30歳で、「そろそろ結婚してもいいかな?」と思っていたらしく、ちょうど石坂浩二も大ファンだったとか。
それで、「一度デートしてあげて」と、加賀まりこが浅丘ルリ子に依頼。
結局、浅丘ルリ子は石坂浩二との結婚理由をこう説明したのでした。
「石坂の趣味が多彩なところや博学なところが、一緒になれば自分を磨くことができて、高めていくこともできると思った」
加賀まりこの娘の死因と父親
加賀まりこの妊娠は、当時の週刊誌にも掲載され、「子供の父親は誰?」といった報道が連日取り上げられたそうです。
人気絶頂な時だっただけに、大きく報じられ、ついに加賀まりこは記者会見を開き、妊娠していることを公表して仕事を降板。
公表は仕事を降板する関係上、やむを得なかったようです。
ただ、加賀まりこは当時のことをこのように語っています。
「女性の生き方について主張したいとか、目立ちたいとか毛頭なかった。妊娠した時素直に『産みたい』と思っただけ。ただ、自分で産んで育てるのになんで他人に 白い目で見られなくちゃいけないの、というのはありました。だからどこにでも堂々と出かけた」
その後の加賀まりこはというと、石坂浩二と破局後の1972年に未婚の母になることを宣言。
ところが、出産した長女を8時間後に亡くすという悲劇を体験したのです。(娘さんはその後、静岡県内の霊園にある墓に葬られています)
なお、娘の死因ですが、未公表なのではっきりとした原因は分かっていません。
ただ、死因は妊娠中の母体に異常があったり、胎児に原因があったりして特定できる場合と、解剖しなければ分からない場合があります。
その一方で、子供の解剖を拒否される親御さんがいるので、原因不明となる場合も多いのです。
そして、加賀まりこは娘が亡くなったことについて、「残念でした。でも妊娠も出産も、今でも後悔していません」と語るも、肝心な父親については明かさず。
一部では「同棲していたことがある石坂浩二が子供の父親ではないか?」と騒がれたのです。
ところが、実際は、熱愛のウワサがあったもう1人の相手である歌手の布施明が娘の父親だったようです。
当初、各誌に掲載された加賀まりこの記事に、人々は驚きを隠せませんでした。
しかも、娘の父親が誰なのか分からなかった状態です。
肝心なところが明かされなかったわけですが、父親が布施明だったことが判明。
(布施明が子供の父親?)
その証拠となるべき1冊の本があります。
それは、タレントのなべおさみが出版した本に書いてあることなのですが、その本にはこう綴られているのです。
「加賀まりこが布施明との子を宿して未婚の母になる決意を固め姿を消してしまった」