山崎晃嗣(光クラブ事件)の日記と遺書の内容は?生い立ちがヤバい!

山崎晃嗣 画像

「光クラブ事件」は1948年、東大生らによる闇金融起業が法律違反によって警察に検挙された事件。

 

主犯は現役東大生の山崎晃嗣だった。

 

当時の山崎晃嗣は天才的な頭脳を使い、金融会社を設立。

 

会社は大成功を収めるが、その後、物価統制令違反で京橋警察に逮捕される。

 

山崎晃嗣の逮捕により、光クラブは顧客の信用を失って業績は悪化。

 

莫大な借金を背負うことになった山崎晃嗣は、駄じゃれを書き散らした遺書を残し、服毒自殺したのである。

 

そのわずか数日後、会社の株が大暴落したのだ。

 

その後、2007年になり、光クラブ設立前の山崎晃嗣の日記が発見されたという。

 

光クラブを設立してからの日記は、死後に明らかになっているが、見つかったのはそれ以前の1年半余の分。

 

そこで今回は東大在学中、26歳という若さで闇金融「光クラブ」を設立した山崎晃嗣の生い立ち、事件の結末などについて迫っていこうと思う。

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山崎晃嗣の日記と遺書の内容

学生実業家、山崎晃嗣は1948年に金融会社「光クラブ」を設立。

 

山崎晃嗣は、戦後間もない日本で天才的な頭脳を使って才能を発揮しながら1年で破たんし、死を選んだ人物である。

 

当時、山崎晃嗣は高金利の配当を約束して出資者を募集し、中小企業などに金を貸し付けて会社を発展。

 

結果、光クラブは半年間で中野から銀座に進出し、資本金600万円、株主400名、従業員30名の会社にまで成長した。

 

だが1949年7月、山崎晃嗣が物価統制令違反で逮捕される。

 

これが原因で出資者らの信用を失い、業績が急激に悪化。

 

その後、名称のみ変更し、さらに資金を集めようと図るも失敗。

 

また、株の空売りで最後の資金調達を試みるが、これにも失敗している。

 

そして11月24日、約3000万円の債務を遂行できなくなった山崎晃嗣は、債務返済の前日、本社の一室で青酸カリをあおり、遺書を残して服毒自殺したのだ。

 

当時、山崎晃嗣が残した遺書に書かれていたのは以下の通り。

 

1、御注意、検視前に死體(体)に手をふれぬこと。法の規定するところなれば、京橋警察署にただちに通知し、検視後、法に基き解剖すべし。

死因は毒物。青酸カリ(と称し入手したるものなれど、渡したる者が本當(当)のことをいったかどうかは確かめられし)。

死體はモルモットと共に焼却すべし。灰と骨は肥料として農家に賣(売)却すること(そこから生えた木が金のなる木か、金を吸う木なら結構)

 

2、望みつつ心やすけし散る紅葉理知の生命のしるしありけり

 

3、出資者諸兄へ、陰徳あれば陽報あり、隠匿なければ死亡あり。

お疑いあればアブハチとらずの無謀かな。高利貸冷たいものと聞きしかど死体さわればナル……氷カシ(貸─自殺して仮死にあらざる証依而如件 よってくだんのごとし)。

 

4、貸借法すべて青酸カリ自殺。

晃嗣。午後一一時四八分五五秒呑む、午後一一時四九分……(ここからは判読不可能)

 

また、当時山崎晃嗣がつけていた日記の最後には、次のように記されていた。

 

・私の合理主義からは、契約は完全履行を強制されていると解すべきだ。・・・・・・契約は人間と人間との間を拘束するもので、死人という物体には適用されぬ。

私は事情変更の原則を適用するために死ぬ。

私は物体にかえることによって理論的統一をまっとうする。

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光クラブ事件 山崎晃嗣の生い立ち

山崎晃嗣の生い立ちだが、生まれた時はエリート家系で育っている。

 

父親の山崎直は、千葉県木更津市生まれで第一高等学校(現・東京大学教養学部)から京都帝国大学医学部を卒業した医学博士で、のちに木更津市長にもなった人物。

 

母親の夫沙子は上野の音楽学校(現・東京芸術大学)出身。

 

山崎晃嗣は1923年10月、5人兄弟の末弟として生まれた。

 

なお、学歴は、第一高等学校から東京大学法学部に進むが、戦争中は学徒兵として軍隊入り。

 

そこでは隊長や参謀が、軍務そっちのけで米や油などを横流ししていたという。

 

戦争の敗戦時には、山崎晃嗣もそれにならって地位を利用し、軍事物資の横流しをして検挙。

 

さらに上官をかばうかたちで懲役1年半、執行猶予3年の実刑判決を受ける。

 

この一件は山崎晃嗣の人生観に影を落とすことになり、釈放されて家に戻った際は、日記に上官への恨みや、投獄時のことなどをこのように綴っていた。

「人間の性は本来、傲慢、卑劣、邪悪、矛盾である」

 

また、2007年になり山崎晃嗣の日記が発見されている。

 

発見された日記は、大学ノート3冊に記されたもの。

 

1946年3月24日には、以下のように書き出しているのだが、これは3年後の自分の運命を暗示するかのような文章となった。

「楽しいから生きてゐる。楽しみがなくなり苦しみが生じたら死ぬばかりである。生命などといふものは要するにつまらないものである」

山崎晃嗣の子孫と光クラブの結末

「光クラブ事件」は、あのライブドア事件と似ていると言われる。

 

山崎晃嗣は、自分の頭の良さを客観的に確認するため、1万5000円を元手に金貸し業「光クラブ」を設立。

 

なお、当時の山崎晃嗣には複数の愛人がいたものの、愛情とかは一切なかったようである。

 

その証拠に、愛人の一人の智子が妊娠した際には堕胎させている。

 

また、結婚もしていない為、子孫も残してないようだ。

 

そんな山崎晃嗣だったが、「光クラブ」を設立する際は、1万5000円の資金全部を新聞広告に使用。

 

周囲の目を引く画期的な広告を打ち、『年中無休!天下の光クラブ、弊社は精密な科学的経済機関で日本唯一の金融株式会社』、『遊金利殖、月一割保証』などの文句で多額の資金調達に成功させている。

 

月1割3分の高配当で集め、利子は2割1分〜3割という高利で、商店や中小企業に貸付けるという仕組みだったのだ。

 

山崎晃嗣の試みは当たり、会社は大成功を収めるが、その後、物価統制令違反で京橋警察に逮捕され、業績が急激に悪化。

 

390人余りの債権者からの約3000万円の債権取り立てに直面し、行き詰まってしまう。

 

その後、支払い期限が迫っていたが、約3000万円のうち、とりあえず300万円を返済する約束が債権者委員会との間で取り交わされていた。

 

また、期限を延期することも可能であったが、山崎晃嗣は敢えてそれをしなかったという。

 

そして債務返済の前日、結末を迎えることに。

 

山崎晃嗣は本社の一室で青酸カリをあおり、遺書と残高2700円の銀行通帳を残して服毒自殺したのだった。

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