竹久みちの娘や家族 三越事件の判決は?デヴィ夫人との関係も検証!
かつて「三越の女帝」と呼ばれた竹久みちは、三越百貨店の社長の座にのし上った岡田茂を利用して荒稼ぎした。
三越百貨店は竹久みちと岡田茂によって、莫大な損害をこうむり、「三越事件」として大騒動に発展。
この「三越事件」と呼ばれる裁判で、1997年、最高裁で懲役2年6月、罰金6000万円の判決を受けたのである。
そして、出所後は目立った活動はなく、2009年7月に動脈瘤のため亡くなった。享年79歳
一方、愛人の竹久みちに利用され、三越百貨店に大損害を与えた岡田茂は、社長の座を解任さるとともに特別背任罪に問われた。
岡田茂の判決は、1993年に東京高裁で懲役3年の実刑を言い渡され、上告するも、1995年、腎不全のため亡くなった。享年80歳
また、当時のことをデヴィ夫人が知っているらしく、テレビ番組「1番だけが知っている」に出演して、事件の真相を語るのだとか。
そこで今回は、女帝と呼ばれた竹久みちの娘や家族、デヴィ夫人との関係について調査してみた。
竹久みちの娘と家族
竹久みちの本名は小島美知子。
1930年生まれの東京都出身で、1950年に現在の共立女子大学を卒業した後、東京銀座でヌーベル・アクセサリー研究所を開設した。
その後、卒業文化学院デザイン科で学び、このころから、宝飾業で上野や銀座の松坂屋と取引を始めている。
また、竹久みちは商売を始めると同時に竹久みちは、結婚して娘をもうけ家族ができた。
だが、文化学院デザイン科を卒業した1957年に旦那と離婚。
離婚した翌年の1958年に「竹久みちアクセサリー研究所」を開設した。
そして1963年、三越百貨店に出入りするアクセサリー納入業者だった竹久みちは、三越の宣伝部長だった岡田茂と知り合う。
竹久みちは岡田茂を誘惑し、深い関係になってまんまと戦略に成功したのである。
ちなみに、竹久みちが岡田茂に近づいたのは、「将来の社長になる」と確信したためだった。
岡田茂は持ち前の根性と、竹久みちの助言で三越内での地位を固め、1968年に銀座三越店長に就任。
竹久みちも1969年に「株式会社アクセサリーたけひさ」を設立した。
翌年以降の岡田茂は、常務、本店長へと昇進し、1971年になると専務に昇格。
そして、その翌年にはついに、三越の社長の座へと昇り詰めたのである。
このころになると、竹久みちも発言力を強め、ついには“三越の女帝”とまで言われるようになった。
ただ、女帝と言わしめた竹久みちの弱点といえば、事あるごとに反発する離婚した前旦那との娘の存在だけ。
要するに竹久みちは、家族である娘には強いことが言えなかったのである。
岡田茂は内部告発が原因で社長を解任
岡田茂は1914年生まれの京都府出身。
1938年に慶應義塾大学文学部を卒業した後、三越に入社した。
岡田茂は竹久みちを愛人にして社長の座へと昇り詰めたのだが、ある日、別の女社長から援助を求められることになる。
援助を求められた岡田茂は、女社長のことを気に入り、融資を即決。
その日から女社長は、岡田茂の愛人の一人となったのである。
ただ、勘のいい竹久みちは、岡田茂の秘書を問いつめ、愛人の存在を知って激怒したのだった。
また、そのころから、週刊文春は岡田茂と竹久みちの関係を怪しんで、書きたてるようになっていたという。
一方、竹久みちの娘は歯科医の男性と結婚すると言い出した。
しかも娘は、すでに妊娠していたのもあって、よけい激怒したのだ。
同時に三越の経営にもかげりが見えてきた。
こんな状況を見かねた秘書は、真近かに迫る「古代ペルシア秘宝展」の見直しを岡田茂に提案するが、聞き入れられないため三越を退社。
秘書は竹久みちの横暴ぶりに愛想をつかしたもうひとりの愛人と連れだって、内部告発したのである。
それから間もなくして、マスコミは「古代ペルシア秘宝展」が贋作ぞろいであることや、岡田茂と竹久みちの関係を書きたてた。
そして、常務取締役、経理本部長、仕入れ本部長、専務も加わった役員会が開かれ、岡田茂は社長の座を解任させられたのだった。
竹久みちとデヴィ夫人の関係
竹久みちは、岡田茂を利用して実に13億円もの資産を築き上げたとされ、六本木に自社ビルを構えるまでになった。
その一角にクラブ「クレオパトラ」をオープンしたのは、水商売に天性の素質があったからだという。
そんな竹久みちとデヴィ夫人の関係だが、2人が顔見知りなのは確かである。
ただ、友達ということではなく、財界人や芸能界のVIPたちを招待する、竹久みち主催のパーティーに招かれたことがある程度だとか。
また、女優の故・淡路恵子さんが雇われママをしていた、六本木のクラブの「シナーラ」でも、竹久みちとデヴィ夫人は何度も顔を合わせている。
2人は「シナーラ」でどのような会話を交わせていたのかは分からないが、デヴィ夫人が「三越事件」のことを知っていて、真相を激白することに異論はない。
竹久みちの判決
1982年に発覚した「三越事件」で、竹久みちは岡田茂と共謀して特別背任などの罪に問われた。
さらに香港三越などから得た手数料収入などを申告せず、約2億5000万円を脱税した罪でも起訴されたのだ。
結局、裁判は最高裁まで争うこととなったが、1997年10月に最高裁で上告が棄却され、懲役2年6月および罰金6000万円の実刑判決が確定。
栃木刑務所に収監され、出所後もずうずうしく「私は潔白」と主張した。
しかし、出所後の竹久みちはというと、1958年に開設した「竹久みちアクセサリー研究所」を1983年に閉鎖。
1986年「クィーンズオーキッド株式会社」を設立し、オリジナルアクセサリー創作やフラワーアレンジを行うも、2009年、東京都内の病院で動脈瘤のため逝去したのだった。