松橋事件の真犯人は誰?現場の住所や国選弁護人の名前は?
1985年1月8日に発生した松橋(まつばせ)事件は、熊本県で1人暮らしだった当時59歳の男性が、刃物で刺されて殺害されているのが見つかった事件。
事件現場は、現在の住所でいうと「熊本県宇城市松橋町曲野」になります。
なお、犯行が行われた場所は、被害者の男性が住んでいた民家で、当時将棋仲間だった宮田浩喜さんが殺人などの疑いで逮捕されたのです。
そして、宮田さんは熊本県警の警察官から自白を強要され、懲役13年の判決が確定し、13年間服役しました。
ところが、この松橋事件では物的証拠がなく、国選弁護人らは自白と食い違う証拠を発見したとして、熊本地裁に再審請求。
結果、熊本地裁は去年6月再審開始を決定しました。
一方、検察側は福岡高裁に即時抗告しましたが、福岡高裁は「自白と矛盾する新たな証拠を覆すだけの検察側の証拠はない」として、改めて裁判のやり直しを命じたのです。
そして、再審公判が行われ、34年前の1985年1月8日に起きた「松橋事件」の犯人として、有罪判決を受け服役した宮田浩喜さんの冤罪が認められました。
宮田さんは、真犯人が見つからないまま、熊本地裁から殺人罪の無罪が言い渡されたのです。
そこで今回は、冤罪の松橋事件について簡単にまとめてみました。
松橋事件の真犯人は被害者の知人?
松橋事件の概要を簡単にまとめると、まず被害者の名前は、岡村又雄さん=当時(59)=でした。
事件発生当時、警察は被害者である岡村さんの自宅で飲食を共にした知人らのうち、岡村さんと口論していた宮田浩喜さん(当時51歳)が犯人だと目星をつけたのです。
そして、警察は宮田さんを任意で引っ張り、取り調べを行ったのでした。
取り調べに対して、宮田さんは当初、犯行を否認していたが、途中から犯行を認める、いわゆる自白をしてしまったのです。
しかし、一審の途中から「ウソの自白をさせられた」と冤罪を主張するも、1986年に熊本地裁は懲役13年、2年後に福岡高裁も同じ懲役13年、さらにその2年後の1990年に最高裁で懲役13年が確定します。
そこで、話を戻して、宮田さんが冤罪ならいったい真犯人は誰なのか?
被害者である岡村さんと将棋仲間だったのは、宮田さん以外にもいたはずで、事件当日も岡村さんの自宅には何人かの知人がいました。
たまたま宮田さんは、岡村さんと口論になっただけで逮捕されてしまったのですが、自宅にいた知人の中に真犯人がいる可能性もありそうです。
ほかにも怨恨関係を洗っていくと、真犯人にたどり着けるかもしれませんが、当時の殺人罪の公訴時効は15年。
その後、2004年から殺人罪の公訴時効は15年から25年に延長され、2010年には廃止されましたが、松橋事件は法が改定される前なので時効が成立しています。
なので仮に真犯人を特定できたとしても、起訴することはできないのです。
松橋事件の問題点
松橋事件の問題点なのですが、この事件は現在の日本の再審制度の課題をいくつも抱えています。
まず、再審が認められたという決め手は、そもそも宮田さんが犯人であることを明確に示す証拠というのは、本人の自白しかなかったのです。
その自白はどういうものかというと、核心部分についてはシャツの左袖から布を切り取って、それを凶器の小刀の根元に巻きつけて被害者をを刺した。
その後、凶器の小刀はよく洗って、血が付いた布は焼いたという供述をしていたのです。
ところが、凶器の小刀に血液は残っていませんでした。
シャツの左袖から切り取った布も、焼いたから残っていません。
物的な証拠がなく、宮田さんの自白だけになっていたのです。
ところが判決が確定した後に、再審の準備をしていた弁護団が検察庁を尋ねたところ、5枚の布が保管されていたことにたまたま気がついた。
そして5枚の布を組み合わせたところ、なんと一枚のシャツになったのです。
しかも燃やしたはずの左袖の部分もあり、シャツの布には血液がついていなかったことも判明。
この事実は自白とは明らかに矛盾しています。
ただ、問題はなぜこの証拠が出てこなかったのか?
いわゆる、捜査機関側が抱え込んでいたということになるのですが、当時の警察官の名前を発表することもありませんし、自白を強要したことに対しての謝罪もありません。
松橋事件の現場の住所
松橋事件の現場住所は、当時は熊本県松橋町。
現在、松橋町は2005年から合併して宇城市になっています。
そして犯行が行われた場所は、熊本県宇城市松橋町曲野の民家でした。
(松橋事件の現場)
その後、犯人として宮田さんは逮捕され、1997年に有罪が確定するわけですが、上記で説明した証拠が明らかになったのは、刑が確定した7年後。
警察庁は裁判中この証拠を明らかにしなかったのです。
それにしても、検察の態度を見るとかなり悪質な証拠隠しという印象があるのですが、実際に弁護団からも強い批判が上がっています。
というのも、裁判中に出ていたら有罪じゃなかった可能性もあったから。
この松橋事件は、まず自白に依存した有罪判決、これが新しく出てきた証拠で重大な事実が判明しました。
そして判決がくつがえるとなれば、過去の再審の例を見ても、こう同じようなパターンが何度も繰り返されるのかと思います。
そのひとつには、証拠の取り扱いに関する手続きの問題があるのです。
一昨年前から裁判員制度が導入されたことなどをきっかけとして、検察が裁判の前にすべての証拠をリストにして、弁護側に示すという制度が導入されました。
この制度が使われていれば、今後冤罪事件は無くなってくるはずです。
ところが、再審請求はその対象外で、つまり証拠をどこまで出すように求めるのかというのは、裁判官に権限が委ねられているのです。
それに専門家からは、再審請求についても証拠開示を制度化するよう求める意見が上がっているので、今回の決定をきっかけに、制度の検討に向けた議論を始めるべきだと思います。
松橋事件 国選弁護人の名前
松橋事件で冤罪を着せられた宮田浩喜さんは、現在亡くなっています。(2020年10月29日に肺炎で死去、享年87歳)
出所後、脳梗塞を発症し、その後遺症で寝たきりになり、認知症の症状も進行していたといいます。
国選弁護人によると、晩年の宮田さんは体も弱って1人で歩くこともできない状態だったとか。
それだけに弁護団は、1日も早い解決を求めていたのです。
なお、その国選弁護人の名前というのは、斉藤誠弁護士のことで、宮田さんを30年以上支援してきたことに、北村弁護士は敬意を表しています。
斉藤誠弁護士は、1988年6月に福岡高裁で控訴を棄却されてから国選弁護人に選任され、その後も弁護団を結成して無実を争ってきました。
そして、ほとんど認められる事がない再審請求を、昨年に勝ち取ったのです。
また、宮田さんの無実を訴えて裁判のやり直しを求めていた、息子で長男の貴浩(たかひろ)さんに関しては、病気で亡くなっていました。
もうひとりの息子で、東京に住む次男の賢浩(まさひろ)さんが、宮田さんが入居している熊本市東区のデイサービス施設を訪れていたようです。