瀬戸内シージャック事件の犯人 川藤の生い立ちと動機!最後に叫んだ言葉の真相は?

瀬戸内シージャック事件 犯人 画像

瀬戸内シージャック事件とは、1970年5月12日から翌日13日にかけて、広島港に停泊中だった愛媛・今治行きの定期客船「ぷりんす号」を乗っ取った事件である。

 

犯人の名前は川藤展久(のぶひさ)当時20歳。

 

犯人の川藤は「ぷりんす号」に乗っていた乗員乗客44名を人質に取り出港。

 

事件の結末は警察官が犯人を狙撃することによって人質を救出し、解決した日本初のシージャック事件だった。

 

瀬戸内シージャック事件は、同年3月31日に赤軍派による「よど号」ハイジャック事件が発生したばかりで、この事件が川藤に影響を与えたとも言われている。

 

また、川藤は、大阪府警の狙撃手に撃たれた後、病院に搬送され死亡したが、撃たれる直前何かを叫んでおり、その言葉が最近になって判明している。

 

今回は、瀬戸内シージャック事件の犯人、川藤展久の生い立ちや動機、撃たれる直前に叫んだ言葉は何だったのか?

 

今回は、瀬戸内シージャック事件の真相などについて迫っていこうと思う。

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瀬戸内シージャック事件の犯人 川藤の生い立ち

瀬戸内シージャック事件の犯人、川藤展久の生い立ちは、1949年(昭和24年)、岡山県児島市下津井町(現・倉敷市下津井)生まれ。

 

父親は船員、母親は新興宗教信者で、家は常に不在がちだったという。

 

小学校の卒業時の指導要録には放浪、エスケープ、無銭旅行、盗みなどの傾向ありなど、様々な問題があることを示唆するものが記載されていた。

 

さらには自己統率力弱く、外部の誘惑に動かされやすく、正悪の判断がつかなく顔色を見て機嫌をとり、自分の気に入ったことしかしないため、非行に走る素質が充分あると書かれていたそうだ。

 

また、中学に進んでからは、半年ほどで学校に姿を見せなくなり、その後は千葉から福岡までといったところで、そば屋、パチンコ屋の店員、零細工場の工員、チンピラなどをやりながら生活。

 

その間、施設、少年院などへ出入りをするなど、成人するまでの生い立ちは、劣等感に包まれている。

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瀬戸内シージャック事件 犯人の動機は?

瀬戸内シージャック事件の経緯は、1970年(昭和45年)5月10日、当時20歳になった川藤展久は、少年2人と共に、福岡市内で盗んだ乗用車で国道2号線を東へ向かっていた。

 

日付が変わる11日午前0時10分、 山口県の国道の検問所で、川藤と少年2人が乗った自動車を追い越し違反で調べたところ、福岡県下で盗まれた車と判明。

 

連行中に川藤らは隠し持っていた猟銃を警官に突きつけ、ナイフで警官を刺し逃亡。

 

警官は全治2週間の怪我を負ったが、少年の1人は逮捕された。

 

12日 午前3時、逃亡中の川藤と残りの少年は広島市内で警官と遭遇。

 

その際、猟銃を突きつけ、走ってきた軽自動車の運転手を人質にして抵抗。

 

川藤らは警官からピストルを強奪し、人質を乗せたまま逃走したが、その後残りの少年は逮捕された。

 

午後3時40分、川藤は前から知っていた広島市内の銃砲店に押し入り、ライフル・散弾銃・実弾380発を奪って逃走。

 

午後5時10分、 タクシーで宇品港に乗り付けた川藤は、銃で脅かしながら桟橋を駆け抜け、停泊中の観光船「ぷりんす号」を乗っ取っり、乗客乗員44人を人質にとって出港した。

 

午後5時30分、犯人と人質の乗った「ぷりんす号」に接近した警備艇が、ライフルの乱射を受け、乗っていた警官が重傷を負う。

 

午後9時45分、ぷりんす号は松山観光港に接岸。

 

給油を条件に乗客37人を解放した。

 

5月13日 午前2時35分、川藤の父親と姉が巡視船で近づきマイクで説得を試みるも、川藤は巡視船に向け発砲。

 

午前8時45分、再び出港したプリンス号は広島港に15時間ぶりに戻った。

 

午前9時52分、川藤はここでもライフルを乱射し、デッキに出て、少年の釈放を訴えたが、そこには、大阪府警のライフル隊が待ち構えていた。

 

そのとき狙撃手が放ったライフル弾が川藤の左胸を撃ち抜き、ゆっくりと倒れていく川藤の姿がテレビで全国中継されたのだ。

 

すぐさまパトカーで病院に搬送された犯人の川藤だったが、その後、病院に収容され午前11時25分に死亡。

 

人質事件で、犯人狙撃によって解決した初のケースとなった。

 

事件の結末は川藤を狙撃したことによって解決。

 

事件を起こした動機は「よど号」ハイジャック事件に影響され共犯の少年を釈放するのが目的だった。

 

この事件で川藤が発砲した実弾は116発。

 

流れ弾を受けた警官が半身不随になったほか、民間人を含め5人が重軽傷を負うこととなった。

 

事件後、一部の弁護士が、狙撃した警官と狙撃を命じた須藤博忠広島県警本部長を殺人で告発。

 

理由は殺すことよりも手足を撃って逮捕することができたのに、いきなり射殺したのは人道上も許せない行為などをあげている。

 

裁判の結果は正当防衛が認められて無罪になるが、警官による銃器の使用に関して大きな影響を残すことになった。

瀬戸内シージャック事件 犯人が最後に叫んだ言葉の真相

犯人の川藤は撃たれた後、病院に搬送され死亡したが、その直前何かを話していたという。

 

武器を持っていない状態でデッキに出て警察官らへ向って何か叫んでいた際、待機していた大阪府警察の狙撃手に撃たれた直後、その場に崩れ落ちた。

 

側にいた中向船長が聞いた川藤の最期の言葉は「死んでたまるか、もういっぺん・・・」であった。

 

しかしこの言葉以外にも川藤は別の言葉を口にしている。

 

その真相は工科大学のコンピューター読唇術で解析して判明した。

 

口の動きから言葉を解明する研究を進めている同大学が解析した結果、川藤は「もう許さないぞ、明日銃でやってやる」という意味合いの言葉を叫んでいたのである。

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