音無美紀子の娘は?息子が難病で宗教(統一教会)に入信?(2025最新)

☆この記事はこのような人におすすめです。
・音無美紀子が若い頃に患った、乳がんステージを知りたい。
・音無美紀子の娘の村井麻友美や、うつ病を克服したことについて知りたい。
・音無美紀子が難病の息子、村井健太郎の為に、新興宗教「統一教会」に入信したことについて知りたい。
これまで大した病気をしたことがなかったという女優の音無美紀子。
ですが、若い頃に「乳がん」と「うつ病」を患っています。
その乳がんですが、38歳のときにステージ2期であることが発覚。
全摘手術をした後に、うつ病が発症したといいます。
そんな音無美紀子は、夫である村井国夫との間に2人の子供を出産。
長男で息子の村井健太郎氏に至っては、生後、間もなく「難病」にかかっていたことを公表しています。
母親の音無美紀子は、息子を難病から救おうと、夫に内緒で新興宗教「統一教会」に入信。
以来、脱会するまでの経緯などについては、著書『妻の乳房 -「乳がん」と歩いた二人の十六年』で触れています。
そこで今回は、音無美紀子が若い頃に体験した息子の難病や、自身が患った乳がん。
さらに、娘の村井麻友美の言葉で、うつ病を乗り越えたことなどについて、迫ってみようと思います。
音無美紀子の若い頃と息子の難病
音無美紀子は、俳優の村井国夫と1976年に結婚。
1982年に娘・麻友美を産み、3年後に息子・健太郎を出産しています。
若い頃の音無美紀子の夢は「宝塚歌劇のスターになること」。
なので、都内の中学を卒業し、宝塚音楽学校に入ろうとしたらしいのですが、親に反対され一般高校へ進学。
しかし、夢は諦められず。
たまたま新人を募集していた「児童劇団若草」が、学校へ行きながらでも演技の勉強ができるというので、通うことになります。
その後、音無美紀子は宝ジェンヌになることを諦め、女優でデビュー。
夫の村井国夫とは、デビュー作「お登勢」で一緒になったのが、知り合うきっかけだったといいます。
結婚もして2人の子供を授かり、順風満帆な生活を送っていたという音無美紀子。
しかし、2人目の子供の息子に、ほどなく難病の点頭てんかんにかかるという不運に遭遇します。
(息子の村井健太郎)
当初、息子の健太郎氏は健康体で誕生。
すくすくと問題なく育っていたのですが、生後10カ月ぐらいの検診に行ったとき、脳波に異常があることが発覚したのです。
そして息子は、ひと月ぐらいの入院を余儀なくされるも、なかなか思うような病状の回復がみられず。
医師から「指定難病です」と宣告されてしまったのです。
そんなとき、音無美紀子は新興宗教「統一教会」の存在を知り、夫に内緒で入信。
そのときの心境を「神につながれば息子の病気は治るという。神に近づける道があると聞いたとき、私は飛びついたのだった。」と統一教会に入信した理由を自身の著書でつづっています。
難病の息子の方はというと、これまでの病院から転院。
その後は宗教に関係なく、奇跡的に回復に向かったといい、今では舞台を中心に活動しています。
また、音無美紀子ですが、現在は統一教会を脱会しているということです。
音無美紀子の乳がんステージは?
音無美紀子は1988年5月、入浴したときに自分の胸を触り、左の乳房に小さなしこりがあるのに気がついたそうです。
その後、夫の村井国夫に勧められて精密検査を受けることに。
検査の結果は、やはり、乳がんだったのです。
音無美紀子は、セカンドオピニオンを友人に勧められ、翌日、慶応病院も受診してみたらしいのですが、結果は同じく乳がん。
当初ステージ1期の診断が下ったそうです。
その後、脇の下のリンパ節に転移していることが分かり、ステージ2と判明。
同年8月末、慶応病院に入院。
翌9月には、10時間に及ぶ手術を受けることになったのです。
手術は、左の乳房と胸の筋肉や脇の下のリンパ節まで切除する全摘手術。
乳がんステージ2期という早期発見のため、温存手術を諦めきれない気持ちもあったとのこと。
ですが、再発の危険性をできる限り排除するために、全摘手術の決断したといいます。
なお、音無美紀子は、自身が乳がんになった際、夫・村井国夫からこのような言葉をもらったということです。
「病気になってくれてありがとう。君の看病する中で人に優しくすることを知った。そうでなければもっと傲慢に生きて、人への優しさを知らないままだったかもしれない。君が病気になったおかげ、ありがとう」
音無美紀子が娘の言葉でうつ病を克服
音無美紀子と村井国夫の娘は、舞台女優として活動中の村井麻友美。
また、村井麻友美は2025年2月27日、相手のことに関しては伏せられていますが、結婚したことを発表しています。
(娘の村井麻友美)
その母親である音無美紀子は、乳がんで入院した際、子育てや家事が思うように運ばなくなったとか。
それは退院後、仕事も家庭も完璧に両立させたかったのですが、家にふさぎ込みがちになり、うつ状態に。
家には当時、小学校1年生に上がったばかりの娘・麻友美と、まだ少ししかしゃべれない息子・健太郎がいて、その子たちの面倒を見るのも楽しくない状況だったといいます。
そんな音無美紀子は、「この子たちの将来を考えてあげることもできない自分は母親失格」と落ち込む日々。
すると、娘から「ママって笑わない。ママが笑った顔が見たい。ママが笑うとかわいいのに」ということを、ぽつっと言われたそうです。
その一言で、笑っていない自分に気づいたという音無美紀子は、娘の「ママの笑った顔が見たい」という言葉や、家族の支えで少しずつうつを克服。
なお、現在の音無美紀子はというと、乳がん検診の受診などを呼びかける、ピンクリボン運動などに協力しているということです。