小林カウ(画像)は娘と息子がいる?最期の言葉や生い立ちは?
☆この記事はこのような人におすすめです。
・戦後初の死刑を執行された女死刑囚・小林カウが犯した「ホテル日本閣事件」について知りたい。
・小林カウ死刑囚の夫や娘、息子について知りたい。
・小林カウ死刑囚の最期の言葉を知りたい。
他にも小林カウ死刑囚の生い立ちなどを簡単にまとめています。
小林カウ死刑囚という人物は、マスコミから「昭和の毒婦」などと呼ばれていました。
なぜそのように呼ばれていたのかというと、自分より年下の男と関係を結び、その男たちを巻き込みながら夫やホテル経営者ら3人の命を奪ったからです。
こうした小林カウ死刑囚の犯行は、吉永小百合が主演の「天国の駅」で映画化されました。
また、小林カウ死刑囚は、たいして美人ではないのに、逮捕後の取調べで捜査官の気を引こうと手を握ったりして色仕掛けをしていたといいます。
しかも自分が死刑になるとは思わず、留置所でも明るく振舞っていたそうです。
一方、刑が執行される前の小林カウ死刑囚については、最期を見届けた教誨師(きょうかいし)がこのように語っています。
・創価学会に入っていた小林カウ死刑囚は「最低でも3つは試したい」と、3つの宗派の教誨師との面接を願い出た。
・死刑執行前の最期の言葉は「長い間お世話になりました。思い残す事も言い残す事もありません」。
・最期に食べたのは「寿司」。
本来なら死刑囚の最期など知る由もないはずなのですが、死刑囚と自由に面会することを許された唯一の民間人が教誨師で、刑が執行される現場にも立ち会います。
教誨師の存在が世にあまり知られていないのは、法務省からの通達により、守秘義務が厳しく徹底されているから。
そんな今回は、「ホテル日本閣事件」で逮捕され、初の女死刑囚となった小林カウの娘や息子(子孫)、最期などについて調査してみました。
小林カウ死刑囚が犯したホテル日本閣事件とは
逮捕される前の小林カウ死刑囚は、商売で一旗をあげ、昭和26年、43歳のときに中村又一郎(当時26)という警察官と出会います。
当初、中村又一郎のことを小林カウ死刑囚は、自分の娘婿にと考えていたのですが、2人はほどなくして男女の関係を持つことになります。
ただ、当時の小林カウ死刑囚は夫がいる身。
いわゆる不倫をしていたのですから夫としては、その様子を勘づくまで時間がかかることはありませんでした。
その後、小林カウ死刑囚は離婚の申し出をするのですが、嫉妬した夫はこれを一蹴。
そんな状況のなか、最初の事件が発生することになります。
その事件というのが夫の急死。
実際は小林カウ死刑囚と中村又一郎が共謀し、夫に毒(青酸カリ)を盛って殺害。
犯行の動機は、中村又一郎との生活に夫が邪魔になったからで、夫が一人目の被害者となったのです。
その後、中村又一郎は小林カウ死刑囚の元から去って行きます。
一方、小林カウ死刑囚は、行商の得意先でもあった塩原温泉へと移住。
この地で土産物屋や食堂を経営することになるのです。
しかし、小林カウ死刑囚が土産物屋の女主人に満足できるはずがありませんでした。
そして、次に目を付けたのが栃木県の「ホテル日本閣」だったのです。
ただ、昭和34年当時の「ホテル日本閣」は経営困難。
経営者も小林カウカウ死刑囚がホテルをほしがっていることを知った上で、共同経営を持ちかけたのです。
それと同時に経営者は「夫婦仲がうまくいっていない妻に手切れ金50万円を都合してくれれば、その後釜にカウを」と助言。
この話に、小林カウ死刑囚は飛びつくこととなります。
しかし、次第に手切れ金も惜しくなった小林カウ死刑囚は、手っ取り早く妻を消せば一銭も金を出さずに済むと考えたのです。
そして、昭和35年、小林カウ死刑囚はホテルの雑用役をしていた大貫光吉に声を掛け、経営者の妻の命を奪うことを持ちかけます。
こうして経営者の妻は、大貫光吉の手によって命が奪われたのでした。
ところが、予定と違って「ホテル日本閣」は、小林カウ死刑囚のものにはならず。
しかも、小林カウ死刑囚が金をつぎ込んで増築までしたホテルが、競売に掛けられてしまうとわかったのです。
すると今度は「経営者を消すしかない」と思うようになります。
ただ、経営者の命を奪ってもホテルが自分の所有物になることはありません。
そんなことは普通ならわかりそうなことですが、小林カウ死刑囚にはわからなかったのです。
そして、またしても雑用役の大貫光吉を炊きつけ、経営者の命を奪ったのでした。
(小林カウ死刑囚の画像)
これが小林カウ死刑囚が犯した「ホテル日本閣事件」。
被害者となったホテル経営者夫婦は、小林カウ死刑囚と大貫光吉の手によって殺害されたのです。
その後、ホテル経営者夫婦の失踪が警察の耳にも伝わることになります。
そして、昭和36年2月、警察は小林カウ死刑囚と大貫光吉を逮捕。
その後の取調べで小林カウ死刑囚は前夫の殺害も自供すると、以前愛人だった警察官の中村又一郎も共謀犯として逮捕されたのでした。
ちなみに逮捕時の中村又一郎はというと、すでに結婚し、2人の子供をもうけていたようです。
小林カウ死刑囚の娘や生い立ち
小林カウ死刑囚の生い立ちは、明治41年、埼玉県大里郡(現在の熊谷市)の農家で7人姉弟の次女として誕生。
当時、この一帯は貧しい農村地帯で、中でも小林カウ一家は極貧生活を強いられていたといいます。
そんな貧しい家庭で育った小林カウ死刑囚は、尋常小学校に通いながら姉と弟の面倒を見ていたとか。
しかし、そのせいで欠席も多かったといい、すぐにカッとなる短気な性格もこの頃からだったということです。
そして、小学校卒業後は裁縫塾に通い、16歳になると憧れの東京・本郷の旅館に女中奉公。
22歳の時、姉の勧めで林秀之助(当時27)とお見合い結婚します。
その後は熊谷で自転車のタイヤ卸業を開業。
ほかにも「五家宝」という和菓子の製造販売も始めます。
そんな小林カウ死刑囚ですが、商才があったのか、終戦後の物不足の中、和菓子販売は当たったそうです。
さらに漬物の販売や行商を始め、商売の面白さと同時に金儲けの味を知って行くのでした。
結局、小林カウ死刑囚は貧困の中で育てられた生い立ちのためか、「将来金持ちとの結婚」を夢見ていたといいます。
ところが、実際は不本意な結婚に不満を持ち続けていて、最終的には毒を盛って人の命を奪ったのでした。
ちなみに、小林カウ死刑囚は前の夫との間に1男1女をもうけています。
ただ、息子は17歳で亡くなっていて、娘に至っては母親との折り合いが良くないという理由から音信不通。
唯一の子供である娘が20歳で音信不通になったことなどを思うと、小林カウ死刑囚は家族に恵まれたとはいえ、難い結婚生活だったように思います。
小林カウ死刑囚の最期
現在、日本で行われる死刑執行は、当日の朝に死刑囚に伝えられ、午前中に刑が執行されます。
今の制度に変わったのは1975年以降からですが、小林カウ死刑囚の時代は、前もって刑の執行が伝えられていました。
その小林カウ死刑囚が拘留所長の呼び出しを受け、死刑執行の言い渡しを受けたのが昭和45年6月10日。
言い渡しを受けると死刑囚は遺留品の整理をしたり、特別の入浴など日常と異なる用事に追われます。
ちなみに小林カウ死刑囚の場合は、死刑執行の言い渡しを受ける際に少しの動揺も見せなかったとか。
もしかすると言い渡しとは考えなかったのかもしれません。
なので、所長室での小林カウ死刑囚は臆する様子も見せず、静かに所長の机の前に進み出たといいます。
そして、所長は送られてきた執行命令書を読み上げたのでした。
「小林カウ、明治41年10月20日生まれ。右の者昭和45年6月7日より5日以内に所定の方法により死刑の執行を行うべし。法務大臣」
すると、小林カウ死刑囚は最期に「もう一日だけ待っていただけませんか」と願い出たといいます。
しかし、所長は「残念だが、待つわけにはいかないんだよ」と言った後、「ところで君はいくつになったね」と尋ねたそうです。
以下、2人の会話。
・小林カウ死刑囚「はい、61歳です」。
・所長「今日は特別のご馳走をしよう。食べたいものがあったら何でも言うがいい。寿司でもウナギでも 天丼でも。普段食べたくても食べられなかったものを思いきり食べたらいい」。
小林カウ死刑囚「それでは、お寿司を」。
こうして小林カウ死刑囚は、寿司を最期の晩餐として注文したのでした。
そして、死刑執行当日の6月11日朝、小林カウ死刑囚は朝食後、あわただしい気持ちで着替えをし、小菅刑務所の刑場の仏間に入ります。
刑務官から「これでいよいよお別れです。なにか言い残すことはありませんか」と尋ねられると、「はい。長い間お世話になりました。ありがとうございました。思い残すことも言い残すこともありません」。
そうキッパリと小林カウ死刑囚は言ったそうです。