羽田空港爆破事件の犯人 青野淳は草加次郎の模倣犯なのか?

羽田空港爆破事件 画像

戦後の日本経済は、段々と高度成長期に入っていき、1960年代には首都・東京の人口が1000万人を突破。

 

これから益々経済が成長していこうとした1962年11月4日、とある爆弾魔の暗躍が続き、東京都民が震えた。

 

それは、後に時効が成立し、未解決事件となった「草加次郎事件」。

 

1962年から1963年にかけて起きたこの事件は、「草加次郎」の名前を使った犯人が、数十件の爆破、脅迫、狙撃などの事件を起こしたのだ。

 

「愉快犯」という言葉は、この事件から生まれたといわれ、以来、草加次郎を真似た爆破事件が相次いだ。

 

そのひとつが1967年2月15日に起きた「羽田空港爆破事件」。

 

爆発は羽田空港・国内線ロビー1階の男子トイレで発生した。

 

犯人の名前は青野淳。

 

青野淳は後に指名手配され逮捕されるが、その計画的な犯行には驚愕の事実が隠されていた。

 

また、この事件が解決した2か月後、青野淳に触発された人物が爆破事件を実行。

 

新幹線「ひかり号」に時限爆弾が仕掛けられたが、幸いなことに事件は未遂に終わった。

 

ただ、爆破を計画したのは当時18歳の少年。

 

少年は2月15日に発生した「羽田空港爆破事件」に触発された模倣犯だった。

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羽田空港爆破事件の犯人は青野淳

羽田空港爆破事件とは、1967年2月15日午後7時5分ごろ、羽田空港・国内線ロビー1階の男子トイレにダイナマイトが仕掛けられ、5人が重軽傷を負った事件。

 

犯人は、ボーイをしていた青野淳(当時23歳)という男だったが、青野は当初、自分に似た友人が搭乗する飛行機を爆破しようと計画して いたが失敗に終わっている。

 

青野淳には金庫破りで懲役3年の刑が下っていて、そのことから逃れるために身代わりにすることを考えていたのだ。

 

まさしく、「青野淳」を消そうとした青野淳。

 

飛行機の爆破に失敗した青野淳は次にトイレで時限爆弾を爆発させ逃走。

 

しかし、警察から指名手配された青野淳は、事件発生から10日後の2月24日、宮崎県高千穂町にある国民宿舎高千穂荘で女と一緒に逮捕。

 

青野淳の動機は、懲役から逃れるために身代わりを立てるというものだったが、計画はすべて失敗に終わった。

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羽田空港爆破事件の青野淳は草加次郎の模倣犯?

1962年から1963年にかけて起きた「草加次郎事件」は、この事件がきっかけに『模倣犯』という言葉が使われるようになったという。

 

「羽田空港爆破事件」の犯人・青野淳もそのひとりだったのかもしれない。

 

結局この事件は延べ1万9000人の捜査員が捜査にあたり、「火薬」や「爆弾マニア」など約9600人をリストアップしたが、犯人を特定することはできなかった。

 

事件は解決しないまま1978年9月5日に時効が成立。戦後日本の犯罪史に名を残す未解決事件となった。

 

その「草加次郎事件」の詳細は以下の通り。

 

最初の犯行は11月4日だった。歌手・島倉千代子の事務所に届いた差出人不明の小包が突然爆発。事務員がケガをする。

小包の中には黒色火薬とマッチで作られた爆弾装置がセットされ、開封すると作動する仕掛けになっていた。包み紙の表には「祝」と「呪」の文字。裏には「草加次郎」「K」の文字があり、鮮明な指紋も残っていた。

その後、1カ月あまりの間に、都内で爆発事件が続発する。

●11月13日 六本木のクラブホステス宅で郵便物が爆発。

●11月20日 有楽町の映画館ロビーでボール箱が爆発。

●11月26日 日比谷劇場でボール箱が爆発。

●11月29日 世田谷の電話ボックス内で石川啄木歌集のケースが爆発。

●12月12日 浅草寺境内でエラリー・クイーンの小説に仕掛けられた爆薬を発見。

これほどハデに犯行を重ねても、捜査当局が犯人を特定できないまま、年が明ける。すると、捜査当局をあざ笑うがごとく、草加次郎の手口は凶暴さを増した。

7月15日、上野でおでん屋主人が銃撃され、瀕死の重傷。数日後、被害者の体内に残っていたものと同じ弾丸が、草加次郎の署名入りで警察に郵送されてきた。

9月5日には、地下鉄銀座線の車両でタイマー式爆弾が炸裂。10人が重軽傷を追う惨事となった。

ごく普通の日常生活の中、いつ、どこで被害者になるかもしれない。人々は底知れぬ不安を感じた。

草加次郎が最後のターゲットに選んだのは、当時人気絶頂だった女優・吉永小百合である。事務所にピストルの弾丸入りの脅迫状を送りつけて現金を要求。実行されない場合、吉永小百合を殺害すると予告していた。

脅迫状には、現金の受け渡し方法として、青森行きの急行列車から、指定の日付け・時間にカネを投げ落とすよう指示されていた。

これは、黒澤明監督の映画『天国と地獄』で描かれた身代金受け渡し場面とソックリだった。

警察は犯人逮捕の好機と考え、現金投下ポイント一帯に大規模な捜査陣を配置。だが結局、最後の投下合図が出ないまま終わってしまった。犯人は、右往左往する警察の様子をニヤつきながら眺めていたのかもしれない。

以後、草加次郎は完全に姿を消す。警察が逮捕したのは模倣犯だけ。ついに事件は、昭和53年9月5日、時効が成立した。

引用元:日刊大衆より

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