衣笠祥雄の妻や娘 息子は?ハーフなのは父親と母親の国籍が違うから?

衣笠祥雄 画像

元プロ野球広島カープ選手で「鉄人」の異名をとった、衣笠祥雄氏(享年71)の訃報が伝えられた。

 

死因は「上行結腸がん」で、葬儀・告別式は妻、息子、娘の家族のみで行うという。

 

衣笠氏は19日に行われた「DeNA対巨人」戦の解説を行っていたばかりで、突然の訃報となったが、解説時に声がかすれていたことから、ツイッターなどでは心配の声が数多く上がっていたようだ。

 

今年、1月には衣笠氏と同学年の星野仙一氏が亡くなるなど、プロで一時代を築いたライバルたちの逝去が続いている。

 

野球ファンなら誰でも知っている名選手の逝去は寂しい限りだ。

 

謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。

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衣笠祥雄の経歴

衣笠祥雄氏の出身は京都市東山区。

 

京都市立洛東中学校に入学すると、1年から野球一筋に。

 

だが、最初は野球部ではなく柔道部に入ろうと思ったそうだ。

 

結局、柔道部ではなく、野球部に入部するのだが、気が変わったのは単純なことだったという。

 

野球部に入った理由は、バッティング練習を見ていたら面白そうだったから。

 

それでも最初は野球経験が一切なかったため、練習ではエラーばかり。

 

ショートの守備を志望したが、下手くそだったので捕手をやらされたそうだ。

 

そんな衣笠氏だが、中学時代は不良だったという。

 

だが、野球部のことを思って酒やタバコはやらなかったとか。

 

そして、中学を卒業すると高校は、地元京都の平安高校(現・龍谷大平安高)へ進学。

 

京都の平安高校は野球の名門校で、甲子園では春に1回、夏に3回の計4度の優勝を誇り、準優勝も春夏共に4回の合計8回経験。

 

衣笠氏も4番・捕手として1964年の甲子園大会に春夏連続出場。

 

平安はいずれも準々決勝で敗れたが、翌年の65年に広島に入団。

 

当時はまだドラフト制度がなく、契約金1000万円、年俸120万円での入団だった。

 

また、衣笠氏はプロでは捕手として入団したが、3年目からは野手に転向。

 

その後はいろんなポジションを守った結果、10年目にサードに定着し、古葉監督だった75年には、山本浩二氏とともにセ・リーグ初優勝に貢献。

 

「赤ヘル旋風」を巻き起こした。

 

そして広島一筋だった衣笠氏は、引退するまでの20年間で2543安打、504本の本塁打をマークし、広島の5回のリーグ優勝と3回の日本一を経験。

 

連続試合出場2215試合という当時の世界記録を樹立(現在は世界2位)。

 

76年に盗塁王、84年にMVPと打点王を獲得し、引退した87年に国民栄誉賞を受賞、96年に野球殿堂入りした。

 

ちなみに衣笠氏が「鉄人」の愛称で呼ばれるようになったのは、入団当時の背番号「28」とマンガ『鉄人28号』を掛け合わせて付けられた。

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衣笠祥雄の妻や息子 娘

衣笠祥雄氏の家族は妻と2人の子供(息子、娘)である。

 

妻の正子さんとは中学時代から交際していて、1971年12月に結婚。

 

息子の衣笠友章氏は1977年4月23日生まれの40歳。

 

衣笠氏がハーフなので、クォーターになる。

 

(息子の衣笠友章氏)
衣笠祥雄 息子 衣笠友章 画像

 

以前息子は「クリエートプロモーション」に所属する俳優だったが、2008年に引退。

 

現在はというと、2009年から電子部品・半導体ビジネスの事業を営む「加賀電子株式会社」広報室のサラリーマンをしているそうだ。

 

娘の永真さんは現在45歳~46歳。

 

一般人ということもあり、情報がないのでどこで何をしているのか分からないが、おそらく結婚して主婦をしている可能性が高い。

 

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衣笠祥雄がハーフなのは父親と母親の国籍が違うため

衣笠祥雄氏がハーフなのは、父親がアフリカ系アメリカ人の在日米軍人、母親が日本人だからだ。

 

幼少期は地元・京都にいる母方の祖父に育てられたという衣笠氏。

 

母親は軍人だった父親と離婚しているが、衣笠氏が小学3年の時に再婚。

 

以来母親と再婚相手と一緒に暮らし始めたという。

 

また、義父は当時、電気工事の現場監督の仕事をし、母親は保育園の給食係をしていたが、住んでいたのは6畳ひと間で4人で暮らし。

 

衣笠氏は貧しかったという家計を助ける為に新聞配達をやっていたそうだ。

 

そして、1982年に母親が肝硬変で他界(享年56)。

 

義父の情報はないが、年齢的にも他界していると思われる。

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