衣笠祥雄がハーフなのは父親の国籍が関係?娘や息子はいる?

衣笠祥雄の画像

☆この記事はこのような人におすすめです。

・元プロ野球選手だった衣笠祥雄さんの息子や娘について知りたい。

・ハーフだった衣笠祥雄さんの父親と母親の国籍を知りたい。

・プロ野球選手になる前の経歴を知りたい。

 

元広島カープの選手・衣笠祥雄さんの訃報が伝えられたのは2018年4月23日。

 

死因は「上行結腸がん」で、葬儀・告別式は妻、息子、娘の家族のみで行われました。

 

それにしても当時は突然の訃報に驚いた人も多かったと思います。

 

なんせ亡くなる直前には「DeNA対巨人」戦の解説を行っていましたからね。

 

ただ、解説時に声がかすれていたことから、ツイッターなどで心配する声が数多く寄せられていたのを覚えています。

 

また、2018年といえば衣笠祥雄さんと同学年の星野仙一さんなど、プロ野球で一時代を築いてきたライバルたちの逝去が相次いだ年でもありました。

 

野球ファンなら誰もが知っている人の逝去は寂しい限りです。

 

そこで今回は「鉄人」の異名をとった、衣笠祥雄さんの人物像を簡単にまとめてみました。

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衣笠祥雄はどことどこのハーフ?

衣笠祥雄さんの国籍がハーフなのは、父親がアフリカ系アメリカ人の在日米軍人、母親が日本人だからです。

 

幼少期は地元・京都にいる母方の祖父に育てられたという衣笠さん。

 

母親は軍人だった父親と離婚した後、衣笠さんが小学3年の時に再婚。

 

以来、母親と再婚相手と一緒に暮らし始めたといいます。

 

また、義父は当時、電気工事の現場監督の仕事をし、母親は保育園の給食係をしていたそうです。

 

ただ、住んでいたのは6畳ひと間という狭い家での家族4人暮らし。

 

当時の衣笠祥雄さんは貧しかったということから、新聞配達をして家計を助けていたそうです。

 

なお、衣笠祥雄さんの母親は1982年に肝硬変で他界しています。(享年56)

 

一方、母親の再婚相手である義父についてですが、年齢的にもすでに他界していると思われます。

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衣笠祥雄の妻や娘 息子

衣笠祥雄さんは妻と2人の子供(息子、娘)の4人家族でした。

 

妻の正子さんとは中学時代から交際していて、1971年12月に結婚。

 

結婚後誕生した息子の衣笠友章氏は、1977年4月23日生まれなので、現在45歳。

 

父親の衣笠祥雄さんがハーフなので、クォーターになります。

 

(息子の衣笠友章氏)
衣笠祥雄の息子の画像

 

ちなみに、息子の職業は「クリエートプロモーション」に所属する俳優でしたが、2008年に引退。

 

現在はというと、2009年から電子部品・半導体ビジネスの事業を営む「加賀電子株式会社」広報室のサラリーマンをしているそうです。

 

また、もう1人の子供で娘の永真さんは現在48歳~49歳。

 

一般人ということもあり、情報がないのでどこで何をしているのか分かっていませんが、おそらく結婚して主婦をしている可能性が高いということです。

衣笠祥雄の経歴

衣笠祥雄さんの出身は京都市東山区。

 

京都市立洛東中学校に入学すると、1年から野球一筋に。

 

ところが、最初は野球部ではなく柔道部に入ろうと思ったそうです。

 

それでも結局、柔道部ではなく、野球部に入部することになります。

 

なぜ柔道部ではなく野球部に入ったのか。

 

それは単純なことで、気が変わった理由はバッティング練習を見ていたら面白そうだったから。

 

それでも最初は野球経験が一切なかったため、練習ではエラーばかり。

 

ショートの守備を志望したらしいのですが、下手くそだったので捕手をやらされたそうです。

 

そんな衣笠祥雄さんでしたが、中学時代は不良だったといいます。

 

ただし、野球部のことを思って酒やタバコはやらなかったとか。

 

そして、中学を卒業すると高校は、地元京都の平安高校(現・龍谷大平安高)へ進学。

 

京都の平安高校は野球の名門校で、甲子園では春に1回、夏に3回の計4度の優勝を誇り、準優勝も春夏共に4回の合計8回経験。

 

衣笠祥雄さんも4番・捕手として1964年の甲子園大会に春夏連続出場。

 

平安はいずれも準々決勝で敗れはしましたが、翌年の65年に広島に入団。

 

当時はまだドラフト制度がなく、契約金1000万円、年俸120万円での入団でした。

 

また、衣笠祥雄さんは最初、捕手として入団したのですが、3年目からは野手に転向。

 

その後はいろんなポジションを守った結果、10年目にサードに定着し、古葉監督だった75年には、山本浩二氏とともにセ・リーグ初優勝に貢献。

 

「赤ヘル旋風」を巻き起こしたのでした。

 

その後も広島一筋だった衣笠祥雄さんは、引退するまでの20年間で2543安打、504本の本塁打をマークし、5回のリーグ優勝と3回の日本一を経験。

 

連続試合出場2215試合という当時の世界記録を樹立(現在は世界2位)。

 

76年に盗塁王、84年にMVPと打点王を獲得し、引退した87年に国民栄誉賞を受賞、96年に野球殿堂入りしました。

 

ちなみに衣笠祥雄さんが「鉄人」の愛称で呼ばれるようになったのは、入団当時の背番号「28」とマンガ『鉄人28号』を掛け合わせて付けられたそうです。

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