イエスの方舟事件の現在!千石剛賢(画像)の嫁と子供や生い立ちは?
1月27日放送の「爆報!THE フライデー」は、1979年~1980年にかけて発生した「イエスの方舟事件」の概要と騒動後の現在に迫る。
拉致、誘拐、監禁騒動で世間を賑わせた宗教団体「イエスの方舟」を設立したのは、主宰者である千石剛賢。(画像あり)
別名・千石イエスと呼ばれたこの男には嫁と子供がおり、亡くなった現在は、嫁が代表者の主幹に、子供とその養子が副主幹になり、教団をまとめている。
生前に「イエスの方舟」をまとめていた千石剛賢とは一体何者なのか。その生い立ちは?事件から37年経った現在、初めて明かされる驚きの真相が番組で公開される。
イエスの方舟事件とは
イエスの方舟事件とは、1970年代後半、主宰者の千石剛賢(画像あり)が信者を連れて各地を転々とし、拉致、誘拐騒動へと発展させた事件。
「イエスの方舟」と命名された団体は、千石が開催していた聖書勉強会が母体となった集団で、信者の多くは若い独身女性だった。
設立した当時は東京・国分寺で3LDKの旧米軍ハウスを借り、信者とともに暮らしていた千石は、聖書を読む会や日曜学校を開きながら、多摩一帯の家々を一軒ずつ訪ねて注文を取る刃物研ぎで細々と生活資金を稼いでいたという。
だが、入信する女性のほとんどが家出ということもあり、家族から捜索願が出されていた。
1977年ごろには、警視庁が特別捜査班を編成したが、「女性たちの入信と家出は自主的である」という理由から、無理やり連れ戻すことはできなかったそうだ。
その後、家族は警察の対応に納得できず、「イエスの方舟」に対する集団抗議行動を起こすようになり、直接、住み家へと押しかけるようになった。
結果、1978年4月21日、「イエスの方舟」の信者26人全員と千石は、国分寺での生活を中断し、住居を引き払って逃亡。
以後、2年以上に渡り、大阪、神戸、長野、赤石、岡山などを転々とすることになる。
そして、このことが騒動となり、事件へと発展。マスコミも「千石ハーレム」「現代の神隠し」といった表現で報道し、世間の興味を掻き立てたのだった。
イエスの方舟事件の現在
「イエスの方舟事件」後の教団は、現在、福岡の中洲に移って「シオンの娘」というクラブを経営する傍ら、来客の悩みや人生相談に乗るなどの活動を続けている。
千石と行動を共にした信者は、一時家庭に戻ったものの、そのほとんどは千石を追って共同生活を再開。
26人の会員はほとんど脱落していないといい、福岡に住み着いた後で加わった会員も3人いるが、騒動のころ子供だった子達も結婚して、夫婦6組が加わっているという。
そして、主宰者である千石剛賢はというと、逃亡中には、逮捕状が出されたが、持病の心臓病から狭心症を発症し、入院を余儀なくされたため逮捕されず、退院後に警察へ出頭。
任意の取調べ受けた後、書類送検されたものの翌年、容疑事実は無いとして不起訴処分の決定が下された。
福岡の中洲に移ってからは、信者と共同生活を続け、1993年からは福岡県古賀市に建てた教会兼自宅「イエスの方舟会堂」で信者との共同生活を続けていたという。
そして、2001年12月11日、千石は78歳で死亡したのだった。
千石剛賢の嫁と子供
※千石剛賢の嫁 まさ子の画像
出典元:朝日デジタルより
「イエスの方舟」を設立する以前の千石剛賢は、最初の嫁と離婚した後、まさ子と再婚すると、大阪で聖書研究会に夫婦で参加するようになった。
そこでの3家族を中心とした研究会の会員10人が1960年に上京し、東京都国分寺市に小屋を建てて「極東キリスト集会」と名乗った団体を作ったのが「イエスの方舟」のはじまりとなる。
嫁のまさ子とは後に形式的に離婚。古参会員の娘らを次々と養女にするなどし、実の子同様に育て上げる。
また、子供に対しては、会員との関係を対等にするため「お父さん」と呼ばせなかったそうだ。
千石の没後は、まさ子が代表者の主幹に、三女の恵と養子の雄太が副主幹になり、「イエスの方舟」をまとめている。
千石剛賢(画像)の生い立ち
※70歳当時の千石剛賢 画像
出典元:朝日デジタルより
主宰者の千石剛賢の生い立ちは、1923年(大正12年)に兵庫県加西市の豪農の家に生まれ、1943年(昭和18年)、20歳で海軍に入隊。
終戦後の1951年、刃物工場の経営に失敗、レストランの支配人の職にありついた神戸でキリスト教会に通い始めた。
いつも何かに飢え、何かに怒っていたという千石。20代では喧嘩に明け暮れる毎日。
自分自身の気の短い性格に、いつかは傷害事件を起こしたりして最後は死刑になるのではないかとおびえていたという。
そんな自分を変えるために千石は「聖書」にのめり込んだのではないだろうか。