盛田幸妃の死因は脳腫瘍で弟も小児がん発症!嫁の倫子さんが壮絶な晩年を涙で激白!
12月23日放送の「爆報!THE フライデー」は、2015年10月16日に死去した元横浜・盛田幸妃投手について特集する。(享年45歳)
盛田幸妃氏の死因は脳腫瘍だった。脳腫瘍を4回再発した際、転移で骨腫瘍が発生し、骨への転移と手術も繰り返すようになり、2014年の春には大腿骨を骨折。そんな壮絶な晩年を嫁の倫子夫人が涙で激白する。
そして、盛田氏と同じく脳腫瘍で亡くなったのが、広島の津田恒実投手。(享年32歳)
「炎のストッパー」と称された津田投手は91年に脳腫瘍を発病。復帰を目指して2年間の闘病生活を戦い抜くも登板できないまま他界した。
さらには、盛田氏の弟までも脳腫瘍で亡くなっているとのこと。MRI検査で脳に腫瘍が見つかったとき、早世した弟が頭をよぎり、「何でおれも…」と運命を恨んだという。
盛田幸妃の死因は脳腫瘍で弟も小児がんを患い死去
盛田幸妃氏は函館有斗高校出身で投手として甲子園に春夏3度出場。
87年のドラフト1位で大洋(現横浜)に入団し、5年目の92年には14勝を挙げ、最優秀防御率のタイトルを獲得した。
98年、近鉄にトレードとなった盛田氏だが、その年に病魔に冒されているのが分かったのだ。
検査の結果、脳腫瘍と診断され、最初に手術を受けたのは同年9月。手術の直後は右手も右足も動かなかったという。
このとき、嫁の倫子夫人は医者から手術をしてみないと後遺症の予測もつきにくい病状であることが伝えられ、再度野球ができるようになる確率は3割程度であると伝えられたのだとか。
現役バリバリだったころの盛田幸妃選手のシュートボールは打者に恐れられたという。
闘志あふれる投球スタイルはくしくも93年7月20日に亡くなった広島の津田恒実投手を彷彿させるものだった。
実は「炎のストッパー」の異名をとった津田恒実投手も同じく脳腫瘍で苦しんだ。
91年に発覚してから2年間の闘病生活を送り、奇跡的な回復を見せたり一進一退が続く中、結局最後は病気には勝てなかった。
津田投手の脳腫瘍が発覚した時、球団側は「水頭症」と発表。
これは周囲の動揺を避けるため病名が控えられてのことだったという。
結局、死因となった津田投手の脳腫瘍は「悪性脳腫瘍」で死亡率が非常に高い病気だった。
治療にも高度な技術が必要で、当時は手の施しようがなかったという。
また、脳腫瘍は「脳のがん」というだけに、ごく一部の脳腫瘍が遺伝的に起こる場合がある。
盛田氏の弟は5歳のときに小児がんで亡くなっており、腫瘍が発覚した時、早世した弟が頭をよぎり、「何でおれも…」と、がんの遺伝を恨んだ。
盛田幸妃の嫁 倫子夫人が壮絶な晩年を涙で激白
盛田幸妃氏が亡くなってから1年以上が経過しており、現在の倫子夫人はアルバイト生活。
「爆報!THE フライデー」では、夫と共に壮絶な人生を歩んだ倫子夫人にスポットを当てる。
倫子夫人は元日本航空の国内線キャビンアテンダントで、世界中を飛び回っていた。
盛田氏と出会ったのは92年のシーズンオフで、知り合いの紹介で交際に発展したという。
盛田氏の脳腫瘍が見つかり、復活を信じる夫に、嫁の倫子夫人は非情な現実を知られるわけにはいかないと毎朝、病院に行く前に笑顔の練習をしたのだという。
しかも、夫の前では絶対に泣かないと決めたのだ。
このとき、結婚してわずか3年目での出来事で、手術には成功したが、本当の試練はここから始まったともいえる。
手術は成功したものの、盛田氏の右手が自分の意志で動かせなくなっていたという。
これは一時的な症状だったが、盛田氏は現実を受け入れることが出来ず、自暴自棄に陥ってしまっていた。
盛田氏は手術に失敗したと思い込んでいたのだ。
その後のリハビリなどで盛田氏の右手は少しずつ動かせるようになるも、麻痺が残っていて、まだ思い通りには動かせなかったという。
倫子さんは夫を支えられるのは自分しかいないと、積極的に看病を行い、マッサージも率先して続けるのだった。
そして、手術から7か月後の98年4月、再びチームに合流し、体作りを開始。脅威の回復によって、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。
手術から3年目の2001年シーズンには、34試合に登板し、中継ぎとして本格的に復活。この年、オールスターにも出場し、パ・リーグが優勝。盛田投手はカムバック賞を受賞。
だが、翌年になって、倫子夫人は盛田氏から、引退を考えていることを伝えられたという。
盛田氏は、惜しまれながらユニフォームを脱ぎたかったといい、2002年10月6日、32歳で現役を引退。
盛田氏の引退後は、2005年に脳腫瘍が再発。
亡くなるまでの10年間で転移が進み手術を繰り返し、ついに余命宣告を受けると自宅療養に切り替え、2015年10月16日に転移性悪性腺腫のため死去した。