地下鉄サリン事件 犯人を自衛隊が断定?駅員や被害者の数は?

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10月18日放送の水トク!「1番だけが知っている」では、1995年に日本中を騒然とさせた「地下鉄サリン事件」が特集される。

 

1995年3月20日午前、東京の地下鉄日比谷線・丸ノ内線・千代田線の3路線計5編成車両に、毒ガス「サリン」が撒かれた。

 

実行犯は5人おり、日比谷線では、「恵比寿駅」と「秋葉原駅」、丸ノ内線では、「御茶ノ水駅」と「四ツ谷駅」、千代田線では「新御茶ノ水駅」の停車直前でサリン液が入ったパックに穴を開けたのだった。

 

5カ所での同時多発的テロに猛毒の神経ガス「サリン」が使われ、地下鉄の車内、駅構内では、被害者が続出。

 

被害者は乗客、駅員あわせて13人が犠牲となり、約6300人が負傷する大惨事となった。

 

事件発生後、駅職員や消防、警察関係者が被害者の対応に当たっていたが、当時は誰も猛毒のサリンが原因だとは考えなかったといい、そのため、今でもサリン吸引の後遺症などに悩まされる被害者は数多く存在する。

 

何が原因なのか分からず、現場では、東京消防庁の化学機動中隊の隊員が原因物質の特定を試みたが、そもそも消防庁が使用していた分析装置に、サリンを検出する能力はなかったという。

 

ますます混乱し、現場が地獄と化す中、唯一自衛隊だけが犯人を断定。

 

自衛隊は「オウム真理教によるサリン散布」を確信し、迅速に準備を行っていたのだ。

 

なぜ、自衛隊だけがオウムが犯人だと断定できたのか、また、その目的は何だったのか?

 

今回はそのあたりについてまとめてみた。

地下鉄サリン事件 犯人を自衛隊が断定?

オウム真理教の教祖・麻原彰晃死刑囚の指示の下に実行した「地下鉄サリン事件」は、日本だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えた。

 

地下鉄サリン事件を始めとするオウム真理教が敢行した一連の事件は、ほかにも1988年の「坂本弁護士一家事件」、1994年の「松本サリン事件」などがあげられる。

 

松本サリン事件では、松本市の市民8人が犠牲になり、約600人が重軽傷を負ったが、一方で、冤罪被害も招いた。

 

被害者である河野義行さんが、事件発生を連絡したところ、たまたま最初の通報者だったことから犯人に仕立て上げられたのだ。

 

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冤罪を晴らすことができたのは、事件発生から半年以上経った1995年の3月。

 

オウム真理教に「地下鉄サリン事件」の強制捜査が入り、松本サリン事件の犯人がオウムであることが明らかとなったのだ。

 

ただ、オウムが実行犯と断定したのは、自衛隊だったという。

 

松本サリン事件が起きた後、オウム真理教の施設が密集する山梨県の上九一色村で異臭騒ぎが発生したが、そこで、陸上自衛隊が現場の土壌を分析したところ、同一のサリンであることをつきとめたというのだ。

 

人の指紋に個体差があるように、サリンにも生成過程で微妙な違いが発生するという。

 

それが一致したということは、オウムが実行犯であると断定。

 

そのことから、陸上自衛隊は松本サリン事件はオウムの犯行であるという情報を警察に言い渡したのだという。

 

また、地下鉄サリン事件にしても陸上自衛隊がいち早く、「オウムによるサリン散布」を確信し、迅速に準備を行っていたのだ。

 

事件発生からわずか30分足らずで、自衛隊中央病院に患者受け入れ準備の命令が発動され、それと同時に、第101化学防護隊および、第32普通科連隊の隊員に、出動待機命令が下された。

 

地上では、地下から上がってきた人であふれ、路上では倒れこんでいる駅員や被害者の治療が行われる中、警察庁から出動要請を受けた陸上自衛隊の隊員たちが、次々と現場に急行していったそうだ。

地下鉄サリン事件で犯人が撒いた駅の名前

地下鉄サリン事件の実行犯5人は、通勤・通学ラッシュのピーク時を狙い、ビニール袋に入ったサリンを車内に持ち込んだ。

 

さらにビニール袋を新聞で包み、「読み捨てられた新聞」という偽装工作も行っている。

 

サリン入りの袋を包んでいた新聞は、教団幹部の指示で、共産党の機関紙である『赤旗』と、創価学会の機関紙である『聖教新聞』だった。

 

事件とは無関係の両組織の関与をにおわすことで、捜査をかく乱する意図だったとされている。

 

そして実行犯となった5人は、3路線計5編成車両に分かれて電車が停車する寸前にサリンの入った袋を床に置き、先を尖らせた傘で穴を開けた。

 

犯行後、すぐさま降車して逃走。

 

逃走した犯人の名前は林郁夫、廣瀬健一、林泰男、豊田亨、横山真人の5名。

 

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林郁夫は、千代田線の我孫子発代々木上原行に乗車し、「新御茶ノ水駅」への停車直前にサリン入りのパックを傘で刺した。

 

廣瀬健一は、丸ノ内線の池袋発荻窪行に乗車し、「御茶ノ水駅」でサリンを散布。

 

林泰男は、日比谷線の北千住発中目黒行に乗車し、「秋葉原駅」でサリン入りのパックを傘で刺し、豊田亨は、日比谷線の中目黒発東武動物公園行に乗車し、「恵比寿駅」でパックに穴を1つ開けサリンを散布した。

 

残る横山真人は、丸ノ内線の荻窪発池袋行に乗車し、「四ツ谷駅」でサリン入りのパックに穴を1つ開けサリンを散布したのだった。

 

だが、そんな5人のなかでも唯一、林郁夫のみ、死刑を免れ無期懲役刑となっている。

 

無期懲役になったのは、当時別件で逮捕されていた林郁夫が自白をしたもので、そのことから捜査は一気に進展。

 

検察側も林郁夫の自白が一気に捜査の流れを変えたことを認め、死刑を求刑出来なかったという。

 

判決の際、裁判官も、「自己の記憶にしたがい、ありのままに供述していることが認められる。極刑が予想されるなか、臆することなく決定的に不利な事項にまで及んでおり、覚悟したうえでの胸中の吐露であって、被告人の反省、悔悟の情は顕著である。」としており、自白したことが無期懲役になった理由であること示唆した。

地下鉄サリン事件の目的と駅員などの被害者

「地下鉄サリン事件」を引き起こした首謀者・オウム真理教教祖・麻原彰晃死刑囚の目的とは一体なんだったのか。

 

教団がテロ行為に及んだ理由として語られているのは、前年に起こった「松本サリン事件」に端を発するという。

 

当時、オウムは長野県松本市に教団支部と食品工場の建設を進めていたが、住民の反対運動などで失敗。その報復と、教団が密かに製造していたサリンの散布テストを兼ねて起こしたのが、松本サリン事件だったという。

 

また、サリンの精製工場が上九一色村にあるという情報をつかんだ警察は、1995年3月22日に同地を強制捜査することを決断していた。

 

ところが、警察内部に存在したとされるオウムのスパイによって、捜査情報が漏えいしてしまい、強制捜査を知ったオウムが、これを阻止するために20日の地下鉄サリン事件を強行したという。

 

オウムの目的は、強制捜査を逃れるために地下鉄サリン事件を起こして、その隙にサリンを処分しようと計画していた可能性がある。

 

当時の国松孝次警察庁長官も、同様の証言をしており、オウムが3月22日の強制捜査を予期して、なんらかのかく乱工作に出るという情報を事件の数日前に得ていたことを明かしていたそうだ。

 

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ただし、情報に具体性がなかったため、「予防措置を講じることは不可能だった」と発言。

 

ようするに警察はこうしたテロを想定していなかったようだが、下手するともっと大参事になっていた可能性もあったという。

 

オウムは旧ソ連製の軍用ヘリを保有していることが判明していたので、ヤケクソになってサリンを積んだヘリを飛び立たせて都内の人口密集地で散布されたら、もっと大参事になったのである。

 

地下鉄サリン事件での被害者は、駅員合わせて13人の犠牲者と約6300人が負傷したが、自衛隊が言うには、最悪の場合、100万人の被害者が出ると算出していたという。

 

だが、そうなった場合は、その場でヘリを撃墜することが使命だと考えていたようである。

  
  

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