白鳥由栄の子孫や生い立ちは?最後は模範囚として過ごす!

白鳥由栄 画像

昭和の脱獄王・白鳥由栄(しらとり よしえ)は、服役中に4回脱獄しており、日本の刑務所における脱獄の歴史を語る上で欠かせない人物だ。

 

小説本「破獄」のモデルとなった白鳥由栄は、26年間もの服役中に「青森刑務所」「秋田刑務所」「網走刑務所」「札幌刑務所」の脱獄を繰り返したが、最後の府中刑務所では模範囚として過ごした。

 

また、白鳥由栄の脱獄と深い関わりを持っている「網走刑務所」の旧建造物を保存公開している「監獄博物館」は、新名所となっており、内装も昭和40年頃まで使われたものを再現している。

 

今回は、昭和の脱獄王・白鳥由栄が脱獄することに成功した手口や生い立ち、子供などについて迫ってみようと思う。

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白鳥由栄の子孫と生い立ち

白鳥由栄の生い立ちは、昔ならではのものだ。

 

白鳥由栄は、明治40年生まれの青森県東津軽郡荒川村筒井出身で、兄弟には姉と弟がいた。

 

しかし、3歳の時ときに、父親が病死。

 

父親の死後は生活が苦しくなり、母親はまだ幼い白鳥の弟だけを連れて、秋田の農家に嫁いでいった。

 

すると、残されたのが白鳥と3歳年上の姉だ。

 

両親がいなくなった2人は、青森市内で豆腐屋を営む叔母に引き取られ育った。

 

そんな白鳥は、子供のころから叔母が営む豆腐屋の仕事を姉とともにこなしていた。

 

そして、18歳のときに函館港からカムチャッカに出港する蟹工船の漁夫になったのだった。

 

ところで、白鳥由栄という人物の性格だが、根は頑固。

 

ただ、馬鹿正直なところもあり、仕事熱心だった。

 

結婚も22歳のときにしていて、3人の子孫を残している。

 

白鳥の妻の情報は少ないが、きっかけは知人に勧められて結婚。

 

当時は魚屋を営みながら、3人の子供とともに貧しいながらも充実した生活を送っていたのだった。

 

しかし、魚屋の方が段々と不況になっていき、生活が苦しくなっていった。

 

やがて白鳥は、蟹工船で覚えた賭博にのめりこむようになり、青森市内で何度も窃盗をはたらくことになる。

 

そのときの共犯者が逮捕されたことを知った白鳥は警察に自首。

 

後に青森刑務所に収監されたのだった。

 

白鳥が捕まったのも義理堅い性格ゆえのできごとである。

 

逮捕されるまでの生い立ちには、色んな不幸が重なっていたのかもしれない。

 

そして、ここから白鳥の脱獄人生が始まる。

 

1度目の脱獄と手口は、1936年、青森刑務所で、針金で手製の合鍵を作り脱獄。

 

2度目は1942年、秋田刑務所で、ブリキ板に釘で歯をつけた手製ののこぎりで鉄格子を切断するという手口で脱獄。

 

3度目は1944年、網走刑務所で、味噌汁で手錠と視察孔を錆びさせ外し、関節を脱臼させ、監視口をくぐり抜けて脱獄。

 

4度目は1947年、札幌刑務所で、床下に穴を掘る手口で脱獄に成功したのだった。

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白鳥由栄 脱獄王の最後は模範囚として過ごす

札幌刑務所を脱獄した白鳥由栄は、窃盗を繰り返しながら札幌の山中で過ごしていた。

 

ところが、ある日、自ら白鳥と名乗って自首したのだ。

 

白鳥が、5度目に収監されたのは府中刑務所だった。

 

そして、懲役20年の判決が言い渡されることに。

 

これまで脱獄を繰り返してきた白鳥だったが、最後となった府中刑務所では、模範囚として刑期を全うしたのだった。

 

そうして、模範囚のまま仮釈放された白鳥は、以後、建設現場などで働きながら生活していた。

 

しかし、最後は東京で心筋梗塞を患って死去。

 

1979年、71歳で生涯の幕を閉じた白鳥には親類がおらず、無縁仏となるところを、知り合いの女性が引き取って埋葬したのだった。

網走刑務所の監獄博物館

昭和の脱獄王・白鳥由栄が収監されていたことでも知られる「網走刑務所」は、1973年に改築計画が公表され、貴重な建築物が失われことを憂慮した網走新聞社の佐藤久が、刑務所建築物の移築保存を提唱した。

 

結果、「監獄博物館」として、現在も残されている。

 

「監獄博物館」の舎房は、廊下が放射状に伸びていて、中央見張りからひと目で見渡せるのだ。

 

しかも、ベルギーの刑務所をモデルに五翼放射状平屋舎房が建築され、昭和40年頃まで使われたものを再現。

 

当時の浴場や雑居房などが見学できる。

 

また、監獄食堂では網走刑務所の昼食を再現した監獄食が味わえるのだ。

 

そんな網走刑務所では100年以上前から自給自足を実現していて、現在の刑務所にも農場がある。

 

そもそも網走刑務所というのは、北海道開拓のため、様々な労働に従事した受刑者達に道路工事をさせるために建てられたのだ。

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