福岡病院長殺人事件(津田院長)の犯人 横山一美と杉本嘉昭の現在
1979年に発生した福岡病院長殺人事件(津田院長バラバラ殺人事件)。
被害者は福岡県北九州市小倉北区三萩野1丁目にあった津田病院の院長・津田薫さん(当時61歳)。
犯人は小倉北区堺町1丁目でスナック「ピラニア」を経営していた横山一美(当時27歳)と、小倉北区片野で釣具店を経営していた杉本嘉昭(当時33歳)です。
2人は金銭目的で津田院長を監禁した後、殺害。
遺体をバラバラに解体するという残虐性に加え、小倉港発松山港行きのフェリーに乗りこみ、大分県姫島沖の周防灘に遺棄したのです。
そんな横山一美と杉本嘉昭は現在どうしているのか?
調べてみたところ、横山一美と杉本嘉昭は1996年7月11日に福岡拘置所で死刑が執行され、現在はもうこの世にいないようです。
そこで今回は、福岡病院長殺人事件(津田院長バラバラ殺人事件)について振り返ってみようと思います。
福岡病院長殺人事件(津田院長バラバラ殺人事件)の被害者
横山一美と杉本嘉昭のターゲットにされた被害者の津田院長。
生前は、マンション経営などで多額の金を手にしていたこと。
また、横山一美が経営していたスナック「ピラニア」の常連客だったことから目をつけられ、犠牲になってしまったのです。
実際、大金を手にしていた津田院長に関しては、黒い噂が多く囁かれていたといいます。
噂によると、津田院長は他の病院で嫌がられるような生活保護受給者や暴力団組員らを入院させ、患者数を増員。
結果、国から多額の医療費を受け取っていたそうです。
津田院長はそうした噂に対して「人道的措置」と言い張っていたものの、病院での常勤医師はわずか2人のみ。
にも関わらず、津田病院は2階建てと4階建ての建物で171床のベッドが用意されていたそう。
当然のことながら周りでは、「病院側は十分な治療をせず国から入る医療費を増やそうとしているのでは?」と噂されていたようです。
しかも津田院長は、地元で知る人ぞ知る人物。
夜の街では豪遊し、あまりに羽振りが良かったことから「夜の帝王」として有名だったそうです。
行きつけのスナックやクラブが多数あり、1か月にかかる飲み代が500万円を超える月もあったとか。
また気に入ったホステスや女性客には、高価な宝石等をプレゼントして愛人にするなどしていたといいます。
その他にも暴力団組長とも親密な関係になり、病院内で発生したトラブルの処理を依頼したりしていたようです。
こうした様々な黒い噂が飛び交う有名人だったことや、大金を所持していたことなどから、津田院長は横山一美に目をつけられてしまったのです。
津田薫院長の経歴
津田薫院長は福岡県田川郡出身。
経歴は九州医専(現久留米大学医学部)卒業後、国立小倉病院に勤務。
昭和35年、171床の津田病院を開業。
しかし、入院患者が病院を抜け出してギャンブルしたり、酒を飲みに行ったり、酔った患者同士が喧嘩して問題を起こしているなどと報道される。
また、紫色の背広に赤のネクタイなど、派手な格好で繁華街を飲み歩き、行きつけのスナック・クラブが40軒。
行方不明になったときに身に着けていた腕時計は500万円のピアジェ、ダイヤ18個付きの指輪。
経営していた津田病院は、事件後に廃院となったものの、跡地に何が建ったかは不明。
横山一美と杉本嘉昭の現在
福岡病院長殺人事件(津田院長バラバラ殺人事件)の犯人・横山一美と杉本嘉昭の現在は、冒頭で説明したとおり、すでに死刑が執行されています。
1996年7月11日、横山一美が43歳、杉本嘉昭が49歳、福岡拘置所にて刑が執行されたのです。
そもそも2人の生い立ちなどは不明ですが、関係は横山一美が経営するスナック「ピラニア」に、杉本嘉昭が客として訪れたことがきっかけだったとか。
当時はお互いに店の経営自体にそれほど困っていなかったものの、金回りがよくなかった。
その為、2人は一緒に飲む度、楽に金を稼ぐ方法がないか話し合い、意気投合していたそうです。
そんなある日、横山一美が「良い方法を思いついた」と声をかけてきます。
杉本嘉昭に衝撃の計画を口にしたのです。
「病院の院長をしている津田院長を脅そう」
「年に2億くらい儲けているので1億や2億は取れるはずだ」
そのような計画を持ちかけられたら断るのが普通ですが、何としても金が欲しい杉本嘉昭は横山一美の話に乗っかったのです。
そして1979年10月末、ついに2人が動き始めます。
まず横山一美が、津田院長をおびき出す為にあるエサを用意。
津田院長は芸能人好きとして知られており、それを利用した横山一美が次のような言葉を投げかけたのです。
「小柳ルミ子さんが11月4日に地元福岡で公演をする為に来るそうなのです、講演後にはうちの店に来ることになっているんで津田院長も良ければ来ませんか?」
この誘いを津田院長は喜んだといいます。
そして何の疑いも持たずに、横山一美からの誘いを受けてしまったのです。
ちなみに、当時、小柳ルミ子が福岡で公演をするというのは本当のことだったとか。
結局、それが津田院長を信じ込ませてしまったのです。
福岡病院長殺人事件の裁判判決
福岡病院長殺人事件(津田院長バラバラ殺人事件)は、言葉巧みに津田院長を誘い出し、スナック「ピラニア」に監禁。
手持ちの現金を強奪した後、2000万円をだまし取る為に恫喝。
妻に現金を市内のホテルに預けるように電話をさせた後、命乞いをする津田院長を11月5日に絞殺するという事件です。
そして、捜査線上に浮かんだ横山一美と杉本嘉昭を逮捕。
その後行われた裁判で福岡地裁は、2人に対して求刑通りの死刑判決を言い渡します。
判決を不服とした2人は福岡高裁に控訴しますが、1984年3月14日にそれが棄却され、1988年4月15日に最高裁で上告も棄却。
それでも諦めない弁護側は判決訂正申立をするのですが、これも棄却され、そのまま死刑が確定したのです。
※公判と死刑執行
・A=杉本嘉昭
・B=横山一美
公判において、犯行態度の残虐性に加えAB両名は互いの罪をなすり付けあう態度に終始した。
そのためか裁判では1審、2審とも凶悪な犯罪の共犯として両名とも検察の求刑通り死刑が宣告され、最高裁も上告を棄却したため、被害者1名に対して共犯2名が死刑が確定する珍しい結果になった。
そのため不当に厳しい量刑との批判もあるが、現行法上凶悪な累犯を重ねた共犯として、ともに同等の厳しい責任を宣告したのは致し方ないともいえる。
弁護側が提出した上告趣意書の末尾に両被告人本人の記載によるものがあるが事実誤認を争うものではなく死刑に対する恐怖を書き記した命乞いとも取れる内容であったため話題を呼んだ。
1996年7月11日、福岡拘置所において「刎頚の友」として両名は処刑された。Aは享年49、Bは享年43。